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手を洗いたくないかもしれない。そんな気分でぼんやりとお土産売り場が空くのを待っていた。そこに紗耶香が駆けてくる。
「はやちゃん、すごいね! 好きって言っていた人と握手なんて‼」
「もう……もう死んでもいいかも」
何気に手も体もあの時から震えっぱなしだ。
「いやいやいや、死んじゃダメだよ。また、舞台を観て幸せに浸ろう!?」
「そうだよね……」
魂がどこかに行っているようだ。あまりにもぼんやりしているから心配した紗耶香が家に帰るのを見届けると言って付いて来る。鈴音は買ったお土産の袋を抱きしめるようにして持ちながらゆっくり歩き続けた。紗耶香の心配している様子が申し訳なくて鈴音は口を開く。
「手、冷たかったんだ」
「?」
「あのひねくれ者さん。緊張を隠しているみたく冷えていた。あんなにひねくれて、尊大で自分が至上主義って感じだったのに」
「……うん」
紗耶香は何か言おうとして止めて頷いた。鈴音の言葉に黙って耳を傾ける。鈴音は彼と握手した自分の手を見つめながらふっと微笑んだ。
「皆、緊張しているんだよね。もちろん、緊張しない人もいるんだろうけど……なんていうか、絶対に手が届かないと思っていた人が同じ場所にいてくれた気が、したんだよ」
「……そっか」
「今までの卑屈な自分を簡単に変えられるとは思わないけれど、少しだけ先が見える気がする」
それをくれたのは間違いなく見た目ではわからない冷たい手だった。常にない静かな声がした。
「また……観に行こうよ。自分のままなりたい自分に近付く術も、やっぱり舞台にある気がする。私が演劇を好きな理由はそれもあるんだ」
鈴音は紗耶香のことも、周囲のことも、下手をすると自分のことも色眼鏡でみていたんじゃないだろうか。そう気付けば心に苦いものが広がるけれど、鈴音の顔は穏やかだった。
「ただ、ただ感動した。もっと観たいと思った。それだけだったはずなのに、それだけじゃなくなっている。……放送も実は少し演じられている気がして楽しいと思う自分がいる」
「それに、ちゃんとメッセージに隠れた感情も伝えたいと心を込めているのがわかる。それが伝わるからファンが増えているんだよ。はやちゃんは素敵なんだからね」
「……ばか」
小さく毒つくも鈴音の口元には隠し切れない笑みが浮かんでいる。心はこんなに晴れ晴れとしているのに、まだ震えが止まっていないのは何故なのか。
「やっぱりもう死んでもいいかも」
もちろん冗談に決まっている。でも思いも寄らない出来事は衝撃過ぎていつまで経っても震えが止まらないのだ。
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