フェードインロード

3/4
前へ
/4ページ
次へ
 今週末の金曜日の夜、待ちに待った観劇の日だ。仕事終わりから直行するのでいつもよりもおしゃれな服。折り返してくるみボタンをワンポイントにしたピンクベージュのカットソー、濃茶色ベースのチェック模様が入ったスカート。紗耶香は黒のハイネックにピンクのカメオブローチ、細かいラインの入ったワイドパンツ。  開場時間には5分遅れて列に加わる。鈴音(りんね)は人混みが嫌いだが観劇の時だけは平気だ。だって自分と同じ好きな舞台を観に来た人達だから。おしゃれをしている人を見ているのも単純に楽しい。今回のミュージカルは欲しいものを追い求めて繰り広げられる冒険劇だ。  チケットは最前列から5番目、舞台から向かって右側の席だった。すぐ近くに入り口がある。劇場全体を使う演出が自慢の舞台なので間近に観られると思うと心が弾む。紗耶香は最前列から7番目で中央に近いのを確認する。  「!」  上に動くものを感じて見れば天井からのロープにぶら下がった役者と目が合った。ひらひらと手を振られ、思わず振り返す。他にも天井スタンバイはいるようだ。カーンカーンと音が響いた。それが舞台の始まりの合図だった。その音が鳴った瞬間、天井のロープ組が一斉にぶら下がって揺らし、勢いを付けてステージまで飛んだ。きゃーと歓声があがる。  そこからは興奮の連続だった。脇の入り口から、客席の間から客をも演劇の世界に巻き込んで展開されていく。  「ここから20分の休憩に入ります」  盛り上がって暗転して、幕が一度下りてかかったアナウンスが頭に届くまで少しの時間を有した。興奮にボーっとしたまま、後半うっかり席を立たなくて済むようトイレに行って、すぐに席に戻らず体を伸ばす。  「はやちゃん、今回の演出、すごいよね!」  「うん! 一緒に旅している気分になる。それにあのひねくれ者の歌声がすごく好き」  「わかるー!」  この時ばかりは話が弾む。同じ感動を味わっているのだ。今この瞬間は紗耶香も同志。休憩時間終了ギリギリまで前半の舞台を語ってお知らせの音で慌てて戻った。第2部の幕が開く。  鈴音はミュージカルの世界にどっぷり()まり、登場人物と一緒に笑い、泣いた。歌に酔いしれ、それぞれの答えに心を震わせる。そしてカーテンコール。鈴音は硬直した。目の前に一番心惹かれたひねくれ者が立って手を差し出していたのだ。その事実を信じられずぽかんと見上げたまま、どうしようと内心パニック。  だって、こういうのはもっと幸運な人が、明るくて誰よりもおしゃれなそういう人に訪れるもので。  どんなにあり得ないと思っても目の前の情景は変わらず、鈴音は震える手を伸ばした。ずいぶん待たせてしまったのではないだろうか。迷惑な顔していないだろうか。ぐっと力強く手が握られ、笑顔が映る。一瞬の永遠。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加