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日常は変わり映えなく、良くいえばそれは平和で、悪くいえば退屈だ。この世は少しでも目立てば攻撃され、極端に低空飛行でもやっぱり攻撃される。成功しているのは生まれ持っての性格がものを言う。林谷 鈴音はそう思っていて、自分は間違いなく負け組で、目立ってはいけないし、そもそもそういうキャラじゃないと思っていた。
「はやちゃん、絶対向いていると思うんだけど」
今日も来たかと内心ため息をつきながら鈴音は隣の席に座る総務課の同僚に顔を向けた。客がいる時と仕事の話をするときはもちろん名字で呼ぶがそれ以外は気安く許可もしていない愛称で呼びかけてくるのだ。
「向いていません。小暮さん、その書類、今日までですよ」
「えぇ……あ、これは、その今やるよ? 忘れていたんじゃないよ?」
「そうですか」
彼女、小暮 紗耶香は鈴音と同じ25歳で偶然にも趣味が被ったことで一気に距離を詰めてきた経緯がある。2人は演劇が好きだ。紗耶香は観るのも演じるのも好き。鈴音は観る専門だ。観劇で偶然隣同士になって以来この調子。鈴音は黙々と仕事を片付ける。
「林谷さん、そろそろ頼める?」
「……はい」
若干眉間に皺が寄ったのは仕方のないこと。この半月前から任せられた一つの仕事が紗耶香の猛プッシュの原因だから。キラキラとした視線を感じながらフロアの中ほどにある固定マイクのスイッチを入れる。深呼吸をひとつ。
「おはようございます。ご来庁の皆様にお知らせします。地下1階の食堂がリニューアルし、本日から一般の来庁者の方もご利用いただけます。用事のついでにお腹を満たすのは如何ですか? がっつり系、ヘルシー系、デザート付き、一品もの、どれもご満足いただけるよう腕を振るっています。それでも基本はワンコイン。その秘密は市役所ホームページに記載しています。インターネットが苦手な方は印刷もしますのでお気軽に総務課へおいでください。海川市役所は職員も市民も居心地良く過ごせる環境を目指していきます。今日も1日良い日でありますように」
マイクの電源を切って席に戻り、冷ましておいたお茶を一気に飲んだ。毎日2回から3回、来庁者や職員への放送を行う。風通しの良い公共施設を謳う市長の発案で色々な提案が総務課に降りてくる。専門の課に振り分けられないことは全て総務課の案件になる。
「はやちゃん、今日も良い声。ねぇ……」
「仕事です」
他人様に聴かせるのだからゆっくり、はっきり、聴きやすい抑揚で、そう意識しただけなのに予想外に周囲や来庁者からの反応が良く鈴音も戸惑っていた。隣で不服気にしている紗耶香に気付かないふりをして仕事をこなす。やがて客が来て笑顔で其方に移動して行ったのを見てホッとした。ほら、客がつられて笑顔になる。ああいうのは天性なんだろう。
ふと思いを馳せた。紗耶香の舞台も見たことがある。ステージの上で明るく、格好良く、伸び伸びとしていた。仕事だってそうだ。彼女は緊張などしたことがないに違いない。
「お昼行こうー」
「え」
「リサーチ兼ねて食堂で食べろって言われてるでしょ」
行き先が一緒で、しかも彼女の性格ならばどうせ同じ席になる。鈴音は無駄なことをするのが嫌いだ。無言で立ち上れば紗耶香がうれしそうに笑った。
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