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あなたの空に届け
第1部
第1章
私は駅ビルにある和菓子屋さんでアルバイトをしていた。和菓子というと、どちらかと言えばお年寄りに人気がある商品だけど、それがある日から彼が毎日のように来るようになった。彼が決まって買って行くものは、かりんとうだった。私がかりんとうを計りにかけてビニール袋の中に詰めると、彼はすかさずそれを一つ掴んで私に突き出した。
私は彼がどうして毎日来るのだろうと気になった。そしてそれは、私に会う為ではないかと思った。自意識過剰かもしれないけど、彼と目が合った瞬間、何かが私の心の中に広がって行くのを感じたからだった。
しかし彼はずっと無表情だった。私がかりんとうを手提げのビニール袋に入れてレジを打ち、お金を受け取ってレシートを渡し、時にはお釣りも手渡して、そしてありがとうございますと言いながら、その手提げ袋を手渡すと彼はそれで行ってしまった。
学校の講義の後そのお店に行くと、彼がいつ来るのだろうかとそればかり気になった。そして、彼がいつものようにお店に現れてかりんとうを買って行ってしまうと、何となく今日の仕事が終わってしまったような感じになった。でも時計を見るとバイトの時間は後3時間も残っていた。
彼が初めてお店に来てその次の日も来た時に、私はこの人に見覚えがあるかもしれないと思った。そしてその次の日は、この人前も来たなって思った。そして、それからもしかしたらこの人よく来るのかなって思うようになった。
それから、この人は毎日来ているんだって思うようになって、それはやがて、毎日この人が来るのは何故だろうって思ったら、いつしか彼が来るのを待つようになっていた。そして、かりんとうばかりこんなに毎日買う人はいないだろうと思うと、もしかしたら彼は私に会いに来るのではないかと思うまでに、それほど時間は掛からなかった。
しかし彼はさっとかりんとうを掴むと、それを私のところに持って来るだけだった。私の勘がはずれたのかもしれないと思ったこともあったけど、それでも毎日こうして来ることは事実だったし、それ以上に私は彼のことが気になって仕方がなくなった。
或る日、彼がギターケースを提げてやって来た。その姿を見て、彼がギターを弾くんだと思った。
(どこで弾くのかしら?)
駅前でギターをかき鳴らしながら、道行く人に歌を聞かせているのかと思った。そう思いながら、私はいつものようにかりんとうを渡した。毎日毎日かりんとうを食べながら、彼はギターを抱えて歌っている。そんなイメージが頭に浮かんだら、いきなり吹き出してしまった。
ところがその彼が突然お店に来なくなった。さよならの一言もなくてそれでいきなり消えてしまうなんて、それじゃあこれまでのことって一体何だったのと思った。私は言葉もなかった。
第2章
その日、面会時間終了間際になって父が母の病室に駆け込んで来た。それから父は、母に二言三言何か言葉を交わすと僕と一緒にその病室を後にした。
「お前、いつもお土産を買って病院に行くんだって?」
「え?」
「母さんが言ってた」
「うん」
「しかも、いつもかりんとうらしいな」
「そうだよ」
父が笑った。
「母さんが好きだって言うからだよ」
「うん。わかってる」
父がまた笑った。
「ほんとなんだから」
自分ながら言い訳がましいと思った。
「それじゃあ父さんもその美味しいかりんとうを食べてみようかな」
「父さんも?」
「ああ。それでそれはどこで買ってるんだい?」
「すぐそこの駅ビルの和菓子屋なんだけど」
「じゃあ行ってみようよ」
「でもこの時間だともう閉まっちゃってるよ」
「なんだそうか。残念だな」
「そんなに言うんなら今度買って帰るよ」
父とその和菓子屋さんの商店街を通った時には、やはりあのお店は既に閉まっていた。
「やっぱり閉まってるね」
「このお店なんだ」
「うん」
いつもはここに大学生くらいの可愛らしい店員がいた。その店員は僕が初めてここでかりんとうを買った時に愛想よく接客してくれた子で、僕は好感を持った。それ以来ここに寄った時は必ず彼女からかりんとうを買っていた。
その時突然そのお店の脇のドアが開き、そこから何人かの女性が出て来た。どうやら今店員の人が帰るとこらしかった。
(あ!)
僕はその中の一人に目を奪われた。それはその子だった。いつもそのお店で見掛ける服装とは違って私服姿だった。その姿も可愛らしかった。僕は次第に遠ざかって行く彼女の姿を目で追っていると、父が突然話し掛けて来た。
「実はな。母さんを転院させようと思っているんだ」
「転院?」
「うん。本田先生の勧めで、病院を変わろうと思っているんだよ」
「変わるってどこの病院に?」
「うちの近くの山王病院だよ」
「あそこの病院?」
「うん」
「でもいきなりどうして?」
「検査の結果が出たんだよ。その結果、山王病院に母さんの病気を専門に診てくれる先生がいるらしいんだ」
「今の病院じゃだめだってこと」
「はっきり言ってそうだ」
「そうなんだ。それだったら最初から山王病院に行けば良かったのに」
「最初は今の病院の方が大きかったし、設備も充実してそうだったからね。それであっちにしたんだけどね。でもあの病院よりももっと適切な治療をしてくれる病院ということで紹介してくれたんだよ」
「そうなんだ」
「それに山王病院は自宅の近くだろ。お見舞いにも便がいいし」
「そうだね」
「それで急だけど、明日転院することにした」
「明日?」
「うん」
僕はあまりに突然の話に面を食らった。明日急に病院を変わるだなんて、僕は全く蚊帳の外だったんだと少しショックを受けた。
「何か手伝う?」
それでも僕の母のことだったし、僕も家族の一員には違いなかったのでそう父に聞いた。
「お前は仕事があるし、それは父さんの方でやるから大丈夫だ」
「うん。わかった」
(あ)
僕はその時、それならばあの病院に行くのは今日が最後だったんだと知った。すると同時にあのかりんとうのお店に行くのも今日で最後だったんだと思った。
(彼女に会えるのも今日が最後だったんだ)
そう思うと僕は落ち込んだ。さっき彼女を見掛けた時に、無理にでも声を掛ければ良かったと思った。しかし、もう辺りには父と自分しかいなかった。
第3章
私は月に数度、大学の帰り道に銀座のスイーツのお店に寄っていた。私はその店のソファに腰掛けて活気に溢れるその街を眺めるのが好きだった。私は大学を卒業したらこの街で働きたいと思っていた。この街に来ると自分にも可能性が広がって行くような気持ちになれた。
その時だった。私の席に私の注文したものが運ばれて来た。
(おいしそう!)
このお店は季節毎にその時々のフルーツがたくさん盛られたスイーツを売りにしていた。ところが、そのおいしそうなのスイーツが私の目の前を通り過ぎて行ってしまった。
(あ、私のじゃなかったんだ)
私はそう思ってそのスイーツの届け先をつい見てしまうと、そこにはスーツ姿の男の人が座っていた。しかもその男の人は一人で座っていた。
(あれ?)
私はその人に見覚えがあった。どこかで会った人だろうかと思った。それでその人をじっと見ていたものだから、その人が何だろうと私を見た。
二人の目が合うと、二人とも何か知ってるぞっていう雰囲気になった。それからその人が小声で、もしかしたら和菓子屋さんでバイトしてる人ですかって聞いて来たので、私もやっぱりあの人だって思った。そして私も小さな声で、いつもかりんとうを買って行かれた方ですかって聞いた。
「覚えていてくれたんですね」
彼が少し照れた感じでそう答えた。
「はい。毎日来てくれてたから」
そこに今度は私のスイーツが運ばれて来た。
「ご注文は以上ですか?」
店員のその声が二人の糸を断ち切った。
「はい」
彼と私はそれで会話が終わってしまった。私は仕方なく目の前のスイーツにスプーンを運んだ。何故か味がよくわからなかった。私は彼のことばかり気になって、スイーツどころではなかった。それで私は思い切って彼に話し掛けてみることにした。この街でかく恥なら、この街を離れればもう恥ずかしくないと思った。
「どうして最近お店にはいらっしゃらないんですか?」
「え?」
彼はスプーンを止めてこちらを向いた。
「最近は全然見掛けないなと思って」
「ああ、そうですね」
私は黙って彼の答えを待った。彼は器の中のイチゴを見つめながら少し考えている様子だった。
「ちょっと事情があって」
(事情? どんな事情だろう?)
私はそれが気になったが、それ以上は聞けなかった。
「またお越し頂けますか?」
私はそれでそう聞いてみた。しかし、それにも彼の答えはまどろっこしかった。
「どうかな」
彼は私に興味なんてなかったのだと思った。ショックだった。それだったらここで会わなければ良かったと思った。そう思ったらさっさとこのスイーツを食べて、早くここを出ようと思った。
それからは、私は黙ってそのスイーツに集中した。彼のことは気にはなったが、もうこれで二度と会うこともないだろうと思った。
(あ、でも彼、ここによく来るのだろうか? それだとまた会っちゃうかもしれないと思った)
その時、突然彼が席を立った。彼の席を見ると、きれいにスイーツがなくなっていた。そして彼はゆっくり私の席に近づくと何か小さな紙をテーブルに置いた。
「これ、僕の携帯のアドレスです。良かったら交換しませんか?」
(え?)
(どうして?)
私はそう思いながらも、お店のナプキンに彼と同じように自分のメールアドレスを書いていた。
「ありがとう。それじゃあ僕は用があるので、お先に」
彼はそう言って行ってしまった。私も彼に慌てて会釈をして、彼が出て行く後ろ姿を見送っていた。
それから私は複雑な気持ちで銀座を散策した。どうして彼とメアドを交換してしまったのかよくわからなかった。今になって何かどきどきして来た。
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