13人が本棚に入れています
本棚に追加
第16章
美緒とゆっくり会ったのは何日ぶりだろうか。目の前で静かに紅茶を飲んでいる美緒の姿を見ながら、僕はそんなことを考えていた。
「どうしたの? さっきからじっと見て」
「ううん。何でもないよ」
「芳樹少しやつれたみたい」
「そう?」
「うん」
美緒にそんなことを言われて僕は改めてここ数日間の事を思い出していた。母の葬義はあっと言う間だった。今まで会ったことがない親戚や、顔だけは覚えがあった母の知人や、そしていつも挨拶を交わす程度の近所の人などがたくさん葬義式場に訪れた。
お通夜と告別式の2日間が終わると周りが一気に静かになった。母はまだ病院にいるような気がして他界したという実感はなかった。それでも何か心に大きな穴が空いたのは確かだった。めったに行われない行事や色々な人に会って、心が大きく広がったまま、その中身がなくなってしまったような感じがした。
会社は1週間忌引きをくれたが、そんなに休んでいるわけにもいかなかったので、告別式の翌日から出勤しようとしたら父から香典返しの話をされた。
香典返しは弔問客がカタログの中から品物を選んで、それをはがきで注文するやり方が主流らしいが、父は義理がたい人なので忙しい中わざわざ足を運んでくれた人には直接届けに行くと言い出した。父にそう言われて僕ももっともな話だと思った。それで父と同じくそのお礼は直接することにした。
その一人目が美緒だった。それで彼女を豪勢なディナーに誘った。
「私はもっと簡単なものでいいんだよ」
美緒はそう言ったけど、僕はこの六本木のお店に以前から彼女を連れて来たいと思っていた。フランスの三ツ星レストランで修業をして、堂々と日本に凱旋したシェフがオーナーのこのお店の料理を彼女に御馳走したかった。
「うわ! 高そう」
そのお店に入った瞬間、開口一番美緒がそう言った。スタッフが笑った。それで美緒は赤くなった。でも僕はそんな美緒が好きだった。
「だから連れて来たんだよ」
「香典返しにこんなお店に招待されるなんて」
「されるなんて?」
「うん……」
「お葬式も悪くない?」
美緒がまた赤くなった。
僕たちは奥の静かな席に案内された。美緒はこういうお店には来たことがないから、僕に全部任せると言った。僕はメニューを見ながら、少し読みにくいフランス語で書かれた料理を読みあげて注文した。
「芳樹、フランス語わかるんだ」
「うん」
お店はとても雰囲気が良かった。スタッフも若い僕たちに気を遣ってくれた。美緒が緊張してやたら水を飲んでいたので、コップが空になると直ぐに注ぎに来てくれた。
「お腹がガボガボになっちゃうよ」
「うん」
「ジュースでも頼んだら?」
「うん」
「値段は気にしなくていいから」
「ほんと?」
美緒が笑った。
それから僕たちはゆっくりと時間を掛けてそのディナーを食べ終えた。
「最後はデザートが来るよ」
「うん」
「どんなんだろうね」
「うん」
美緒が楽しそうな顔をした。やっぱりここに連れて来て良かったと思った。やがて運ばれて来たデザートは人参とタピオカ、キャラメルのヴェリーヌだった。
「うわ! 美味しそう」
僕は人参が少し苦手だったので、一瞬どうしようかと思ったが、雰囲気を壊さないようにと食してみると、そのデザートは難なく食べることが出来た。
「これ美味しいね!」
「うん」
(人参て美味しいんだ)
そう思った時、僕は涙がこぼれた。美緒は僕のその涙に気がついてどうしたのと聞いた。僕はよく母に人参を食べなさいと叱られたことを思い出した。母は人参を使った料理が好きだった。きっと母は人参が好きだったのに違いないと思った。このデザートを母に食べさせてあげたかったと思った。
「大丈夫?」
そう言って美緒がハンカチを差し出した。
「うん」
「お母さんにも食べさせてあげたかったね」
(え!)
僕はどうして美緒がそのことをわかったのだと思った。
「芳樹さん、お母さんのことを思い出したんでしょ?」
「うん」
「このデザート美味しいから、きっとお母さんにも食べさせてあげたいって思ったんでしょ?」
「母は人参が好きだったから」
「そうだったんだ」
「うん」
「でもかりんとうだって喜んでたと思う」
「うん」
「その芳樹さんの気持ちはきっと伝わったから」
「うん」
美緒は僕のことは何でもわかるんだと思った。そう思うと安心した。
それからそのお店を出た。少し歩いたところにベンチがあったのでそこに座った。
「ちょっと緊張したね」
「うん」
「でも美味しかったでしょ?」
「うん」
「たまにはいいよね。ああいうところも」
「うん……」
美緒が少し心配そうな顔をした。
「香典返しで、みんなをあんなに高いレストランに連れて行くの?」
「え?」
僕は吹き出しそうになった。
「美緒だけだよ。そんなことしてたら破産しちゃうよ」
「なんだ。安心した」
まだそれほど遅い時間ではなかったけど、僕は連日の疲れがまだ残っているようだった。
「やっぱり芳樹やつれた」
「忙しかったからね」
「会社はいつから?」
「明日からと思ってたんだけど、来週からにする」
「うん。それがいいよ。少し休んだほうがいいよ」
「でもそういうわけにもいかないんだ」
「どうして」
「香典返しにあちこちを回らないといけないから」
「そうなんだ。じゃあ明日も?」
「うん」
「じゃあ今日はもう帰ろう」
「え?」
「芳樹大変だから」
「うん」
まだ時間は早かったが、僕たちはそれで帰ることにした。
「ちゃんと寝てね」
「うん」
「ちゃんと食べてね」
「さっきたくさん食べたよ」
「うん」
「じゃあ」
美緒との久しぶりのデートを僕は満足して帰路に着いた。
「ただいま」
「お! お帰り。早かったな」
自宅に帰ると、なんとなく家の雰囲気が違って感じられた。僕はそれがどうしてだろうと思った。
「父さん、今日誰か来たの?」
「うん。希さんが来てくれたよ」
「え?」
僕はそんな話聞いていなかった。
「様子を見に来てくれたみたいだよ」
「そっか」
希からは、いつから出勤なのかというメールが来ていたけど、それには返信をしていなかった。
「母さんにお花を持って来てくれてね」
母の遺影の横に豪華な花が飾ってあった。
「凄いね」
「うん。暫くお前の帰りを待ってたんだけど、お前が帰って来る1時間くらい前に帰ったよ」
「そうなんだ」
「夕飯をお誘いしたんだけどね」
「うん」
僕は希にも何か夕飯でも御馳走しないといけないと思った。
「本当にいい娘さんだよな」
「え?」
「希さんだよ」
「うん」
自宅に一歩入った時に感じた何か心地よいものは、それは希の香水の匂いだとわかった。
いつもは会社の中で隣にいて、あまりに近すぎて気が付かなかったのかもしれない。彼女がこの家に出入りしたことで、家の中が何か浄化されたような気がした。それはかつて母が元気でこの家の中で生活をしていた時に感じたものに似ていた。そしてそのことを父もも感じているに違いないと思った。それは父の目が語っていた。父が希のことを話す時の表情が明らかにそれを物語っていた。
「それでな芳樹」
「うん」
「今度の日曜日に希さんをうちに招待したんだよ」
「え……」
「お前からも改めてお誘いしてくれよ」
「うちで何を?」
「お通夜と告別式の受付までしてくれたんだぞ。夕飯くらい御馳走したって罰は当たらんだろ」
「うん」
「な。頼むな」
「了解」
僕はその夜、改めて希に受付のお礼を言った後に、今度の日曜日の話をした。
「父がどうしてもって言うから」
「うん。いいよ」
「悪いね。付き合わせちゃって」
「お父さん楽しい人だし、別に全然構わないし」
「ありがとう」
僕はその時に美緒も一度うちに連れて来て、父と三人で夕飯を囲んだらどうだろうかと思った。そうすればきっと父も美緒のことを気に入るだろうと思った。でもその一方で、まだそうするには美緒は若すぎるかもしれないとも思った。
第17章
次の日曜日は朝から父の機嫌が良かった。母が病床に臥してから、これほど上機嫌な父を見たことはなかった。それで僕まで何故か嬉しくなって来た。
やがて、時間ばかり気にしていた父の待望の時が訪れた。玄関のチャイムが鳴って、希がやって来た。
「まるで父さんの恋人みたいだなあ」
僕がそう冗談を言うと、父は大きな声で笑った。希は父の待つ応接間に入って来ると、そこで深々とお辞儀をした。
「これをお母様に」
彼女はそう言って、それを袋から取り出した。
(かりんとう?)
それは僕が毎日のように母の病室に買って行ったあのかりんとうだった。
「かりんとう?」
僕は希を見てそう声を上げた。
「この前希さんにお話ししたんだよ」
「え?」
「お前が母さんに毎日かりんとうを買って行った話を」
「ああ」
そんな話をしたことを二人とも僕には黙っていた。父は希からそのかりんとうを受け取って、それをそのまま母の遺影の前に置いた。
「お線香を上げさせてもらって宜しいでしょうか?」
「あ、どうぞどうぞ」
希はささっと父の前を通って、母の白木の位牌の前に座った。そしてお辞儀をして線香を取り、ろうそくの火をつけて、それを香炉に立てた。その姿を父はじっと見ていた。
「さ、希さん、こちらに来て座ってください」
父はリビングに彼女を案内した。畳の部屋よりも椅子に腰掛けた方が楽だと思ったからだろう。希が仏壇の前にいる間に僕は三人分のコーヒーを入れてリビングのテーブルに持って行った。
「おうちでは芳樹さんが入れてくれるんですか?」
「ええ、こいつはコーヒーを入れる担当でしてね。彼が入れるコーヒーは美味しいですよ」
希がへえと言う顔をして僕のことを見た。会社ではコーヒーは彼女がいつも入れてくれていた。これからはその役目が僕になりそうかもしれないと思った。
「でも、こうして三人が集まると、母さんをお見舞いに来てくれた日のことを思い出すなあ」
「うん」
僕もそれに同意した。その時は母がまだ生きていた。そう思うと懐かしかった。懐かしいというよりも、もう絶対に戻ることが出来ない時間を彼女も共有していることが何か特別な感じがした。彼女は生前の母を偲ぶには不可欠なパズルの一部のような気がした。
「お前が母さんに紹介した女性は希さんだけだよな?」
「え?」
希を決して紹介したわけではなかったが、それ以前に僕は女の子を母に紹介したことは一度もなかった。母はよく男の子ではなくて女の子が欲しいと言っていたけど、きっといつか僕が女の子を連れて来るのを楽しみにしていたのかもしれないと思った。
その夜はお寿司だった。いつも出前を取っているお店の特上のお寿司が家に届いた。僕は今まで上しか食べたことがなかったので、俄然食欲が増した。
父は母がお寿司が好きだったこともあって、生ものだろうがなんだろうが、それを母にお供えしていた。それで四人前を注文してあったので、僕もお腹一杯その美味しいお寿司を食べることが出来た。
食事の後は、デザートの話になった。希がそれだったら、かりんとうだけではなくてケーキも買ってくれば良かったですねと言った。しかし、僕は父に言われて朝っぱらから遠くの有名なケーキ屋にお遣いに出されていた。冷蔵庫からその買って来たケーキを出すと、希が歓声を上げた。
「こいつ学生時代はギターばっかり弾いていてね」
「そうなんですか? 芳樹さんギターなんて弾けるんですか?」
「う、うん……」
僕は希の芳樹さんという言い方が気になっていたが、父の手前仕方ないのかなと思っていた。
「あっちこっちのバンドだか、プロダクションだからか誘われてたな。な、芳樹」
「うん」
僕は音楽の話を希にしたことはなかった。
「今は弾かないの?」
希が僕の方を向いて聞いて来た。その目に好奇の光があった。
「たまにかな」
「たまにか。ライブとかやらないの?」
「うん」
「聴いてみたいなあ」
結局最後は僕の話がデザートになって、その夕食会はお開きになった。僕はその後、駅まで希を送って行った。
家に戻ると、父が母の遺影の前で何かをつぶやいていた。どうやら今日の報告をしているようだった。
「母さんはお前があの人と一緒になるものと思って逝ったんだよ」
父が母の遺影を見つめながら急にそう言った。僕はその場に立ち止まった。
「母さんが希さんの手を握って、芳樹を宜しく頼みますと言った光景がずっと脳裏から離れないんだよ」
父は本気だと思った。そして僕はどうしてあの場に美緒を連れて行かなかったのだと後悔した。もし今本当に好きなのは美緒だと言って父に会わせても、父は美緒を子どもとしてしか認めないだろう。
美緒はまだ19だった。結婚なんてまだまだ先の話。それに美緒には医者になりたいという夢があった。僕は医学部を受験し直して医者の道を歩んで欲しいと思っていた。父や僕のために彼女にはつまずいて欲しくはなかった。
母の死ですっかり父は老けこんでいた。それは寧ろ衰弱した感じだった。僕は母に続いて父までも逝ってしまうのではないかと心配だった。せめて孫の顔を見るまでは父に元気でいて欲しかった。そしてそれは母も望んでいることだろうと思った。
しかしそう思うと、僕の中に大きな迷いが生じて来た。勿論僕が好きなのは美緒だった。美緒のことを愛していた。しかし美緒がまだ大学生だということ。そして進むべき将来があるということ。そしてその道はまだまだ長く険しいということ。
一方、父の人生はそんなには長くないのではないかということ。僕も父の幸せや、そして母の願いに出来るだけ貢献したいという思いがあった。それは父一人、子一人になった今、特に強く願っていることだった。
それからずっと会社で近い存在だった希。彼女は父のお気にで、しかも唯一僕が母に紹介した人だということ。更に彼女は母に僕のことを宜しくと頼まれた存在であった。
「おやすみ」
僕は父の後ろ姿にそう言って二階へ上がった。
最初のコメントを投稿しよう!