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第17章
僕のジレンマはその日から始まった。会社では僕の隣にいつも希がいた。希とはいつしか昼休みを一緒に過ごすようになっていた。そしてそれが会社では周知の仲になって行った。最初は抵抗があったものが、それが自然な形として、僕自身が受け入れて行くのに、それほど時間は掛からなかった。
会社からの帰宅も一緒になり、時には希の家に寄ることもあった。彼女が有名な高級住宅街の大きな家に住んでいることをその時初めて知った。彼女の両親は僕を歓待してくれて夕飯を一緒にと誘ってくれることもあったが、僕は父のことがいつも気になったので、それは丁重にお断りして、あまり長居はしなかった。
それでも休日は美緒と一緒の時間を持った。勿論美緒とは休日だけでなく、会社から帰宅すると明け方近くまでメールのやり取りをすることもあった。
父は時々希の話をした。僕が日曜日には決まって出掛けるのを見て、希さんとデートかと聞いて来ることがあった。違うよと言うとじゃあ誰と会うんだということになったので、僕はそうだと答えていた。しかし、それがいけなかった。父は僕が希と付き合っているものだとばかり思ってしまったようだった。それである日、夕食の時に突然父が改まって僕に希の話をして来た。
「そろそろ納骨をしようかと思ってる」
「え? 父さんはずっとここに置いておくと言ってなかった?」
「うん。当初はそう思っていたんだがな」
「気が変わった?」
「うん」
母の納骨については母の兄弟や近所の親しい人からも色々と言われていたことだった。
「いつの予定?」
「百か日にどうだろうかと思ってる」
「うん」
もうその日は目の前だった。
「お寺へはもう連絡してあるから」
「具体的にはいつになるの?」
「再来週の日曜日」
「了解」
僕は携帯のスケジュール帳に納骨と入力した。
「それとな」
「うん」
「その日、どうだろう、希さんも……」
「え?」
「希さんにも声を掛けようと思うんだけど」
「どうして?」
「確かにまだ早いのかもしれないけど」
僕は父の言っている意味がわからなかった。
「納骨をしようと思ったのは、早く喪を開かせたいからなんだよ」
「え?」
「まさか喪中におめでたい話も進められないだろう?」
「?」
「お前と希さんのことだよ」
「……」
「父さんは、母さんとの約束を実現したいんだよ。だから早く喪を開かせてお前たちを一緒にしたいんだ」
(え?)
僕は、父さん、勘違いしているよと言いそうになって、それを抑えた。
「父さんはお前と希さんの結婚式を早く母さんに見せてあげたいんだ」
「父さん……」
僕は返す言葉を失った。
「父さんもな、こんな暗い気持ちから早く抜け出さないといけないと思ってるんだ。母さんが死んだ時は本当に父さんも一緒に逝きたいと思った。でもお前のことを思うとそうすることも出来ないなと思ってな。
でもそうは言っても積極的に生きる意味を見失っていたんだよ。ところが、希さんと母さんのあの約束が突然脳裏に蘇って来て、そうしたらその約束を実現するまでは絶対に死ねないと思うようになったんだ。それまで頑なに納骨はしないと言っていたのは、そうすることが何か母さんをこの家から追い出すような気がしてな。だからとてもそんなことはしたくなかったんだ。
でも考えが変わった。母さんを納骨するのは、母さんをこの家から追い出すことじゃないんだ。それは母さんの最期の思いを実現するためには必要なことなんだよ。母さんの最期の夢をな。それは勿論病院で希さんと交わした約束を実現することなんだよ」
僕は父がしゃべるのをじっと聞いていた。
「そして、母さんのその夢の実現は、父さんの生きる希望でもあるんだ」
僕はここまで父に言われてしまっては、もう何も言えなかった。今更美緒のことも言い出せないと思った。僕の後悔は極限に達していた。
「でも……」
父は僕がそう言ったのを黙って聞いていた。
「でも、希に聞いてみないと」
「ああ、そうだったな。突然お寺に来てくれと言ってもな」
僕はそうじゃなくて、結婚のことを聞かないとと言いたかった。
「先週日曜日」
「うん」
「先週日曜日、待ち合わせの時間を間違えたのか?」
「え?」
「お前が希さんと会うと言って出掛けただろ?」
「あ……」
「あの日、希さんが訪ねて来たぞ」
「あ」
「母さんの月命日だった」
「うん」
「希さんがお花を持って来てくれた。それで父さん、希さんに気持ちを聞いたんだ」
「え?」
「率直な話、お前をどう思ってるんだってな」
「うん……」
「希さんは本当にいい娘さんだな。母さんとの約束がお前のプレッシャーにならなければいいって言ってた」
「……」
「結婚をするために付き合うということではなくて、好きだから付き合って、それでお互いが結婚したいっていう気持ちになって結婚出来たら、そんな素敵なことってないですねって言ってた」
「……」
「母さんの手を握って、あんなことを頼まれて、希さんだっていい迷惑かもしれないよな。希さんこそ、凄いプレッシャーじゃないかな」
「うん」
「希さん、その話をしてる時、涙を流してたよ。お前は最後の最後に母さんに初めて親孝行出来たってその時思った」
「……」
「あの後会ったのか?」
「あ、うん」
「そうか。その話は言ってなかったか?」
「ううん」
「そうか」
恋愛と結婚は別。どこかで聞いたそんな言葉を僕は思い出していた。
第18章
最近芳樹がぼーっとしている時が多くなった。それはお母さんを亡くしたせいだと思った。私の両親は健在だったが、もし今母が死んでしまったらどうだろうかと思った。そう考えると芳樹の心の痛みは計り知れなかった。私は勿論そんな苦しみを味わいたくはなかったけど、それでも芳樹の今の辛さは分かち合いたいと思った。
でも私には何も出来なかった。隣にただ黙って座って、彼の手を優しく握ることくらいしか出来なかった。
「あ、ごめん」
彼は暫くするとそう言って、再び私のことを見た。
「ちょっと考え事をしていて」
「うん」
「どっか飛んじゃってなかった?」
「ううん。芳樹はいつも私の隣にいてくれるよ」
「うん」
「私も芳樹の隣にいるから」
「うん」
「お母さんいなくなって、お父さん寂しそう?」
「うん。なんか急に老けこんだ感じだね」
「そうなんだ」
「うん」
「やっぱり夫婦っていつまでも一緒にいたいよね」
「そうだね」
「好き合った同士が、片方を置いてどこかへ行ってしまうなんて悲しいよね」
「うん」
彼がまた遠くに視線をやった。
「もし、僕がいなくなったら、美緒はどうする?」
「え?」
「もしもだよ」
そう言って彼は笑った。
「うーん。やっぱり寂しいなあ」
「それだけ?」
「だって追い掛けることが出来ないでしょ?」
「うん」
「死ぬの怖いし」
「もし死ぬんじゃなかったら?」
「どういう意味?」
「突然僕が消えちゃったら?」
「どこへ?」
「どこかへ」
「うーん。捜す」
「捜す?」
「うん。だっていなくなったんだったら捜す」
「そっか。捜してくれるんだ」
「うん。そしてどんなことがあっても見つけ出す」
「うん」
私がそう答えると彼は満足そうに笑った。私は芳樹のわけのわからない質問に答えると、窓越しに外を歩く人を眺めた。するとカップルが目の前を横切った。女の子が楽しそうに笑いながら男の子にまとわりついていた。私は少し羨ましかった。それで私も今すぐこの喫茶店を出て、芳樹の首に抱きたいと思った。けれど、芳樹はそんな雰囲気ではなかった。それが少し残念で、そして寂しかった。けれど、それは仕方がなかった。芳樹は最愛のお母さんを亡くしたばかりだった。そんな芳樹を支えるのが私の役目だと思った。だから私は黙って芳樹の横に居ることにした。こうすることが私に出来る精一杯のことだと思った。
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