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第21章
「一緒にいて、心が休まる」
芳樹は私の質問にそう答えた。私は私のことが好きだからと言って欲しかった。そうしたら私は、私のどこが好きだと聞きたかった。
「私のどこが好き?」
芳樹はそれには何と答えたろうか。でも芳樹なら、私の全部が好きだなどという冴えない答えはしなかったろうと思う。きっといつも自分のことを気遣ってくれる、その優しいところが好きだと言ってくれたと思う。
最近芳樹は会う度に、私に医者になれと言って来る。医者になることは、確かに私の夢だった。でも無理。私には、もうその情熱はない。あれほどの努力をして勉強に打ち込む情熱は今は持ち合わせてはいない。
それより私は、芳樹と一緒に居たかった。芳樹の傍にいつも居て、そして彼と幸せな時間を過ごしたかった。そして芳樹がお母さんを失った悲しみを少しでも和らげてあげたかった。今私のやるべきことは、それだと思った。今芳樹を支えられるのは私しかいなかった。私が芳樹を支えなかったら、きっと彼は倒れてしまうと思った。そう思うと、私には医者になることはどうでもよかった。私の夢は最早、医者になることではなくて、彼の支えになることだった。そして医者になれたとしても、その時に彼が隣に居てくれなかったら、それは無意味なことだった。
第22章
僕は美緒との最後のデートに渋谷クロスタワー32階のレストランを選んだ。
「スタジオアルタの前で待ち合わせなんて」
美緒は少し不満そうだった。
「人がやたら多くって、芳樹がわからなかったよ」
僕はたくさんの人に囲まれた美緒を見つけて、ぐいと手をつかむと美緒が一瞬驚いた顔をしたが、それが僕だとわかると安心した顔になり、人の囲いの中からこちらに出て来た。
「え?」
美緒が僕を見て唖然とした。僕はアルタの前で手を上げていた。すると、人ごみの中掻きわけるようにタクシーが現れて、間もなく僕たちの目の前で止まった。
「乗るの?」
「うん」
「どこへ行くの?」
「行ってからのお楽しみ」
美緒は僕に促されてそのタクシーに乗った。
「渋谷のクロスタワーまで」
僕が運転手にそう言うと美緒はまたびっくりした顔をした。僕は彼女とは目を合わさずに微笑んだ。
地上120メートル。そのレストランはそこにあった。
「すっごく高いね」
彼女は窓際の席に座って遥か彼方まで届く視界に興奮していた。
「今日の日のために予約してあったんだ」
「うん!」
美緒は一心に窓から外を眺めていた。
「ここからだと富士山も見えるのかな」
「どうだろう。でもきっとその明かりが途絶えた更に先にあると思うよ」
「うん。昼間だったら見えそうね」
美緒はさっきからずっと外の景色を見ていた。
「私、海外には一度だけ行ったことがあるの」
「どこに行ったの?」
「香港」
「香港の夜景もきれいだよね」
「香港から日本に戻って来て、飛行機の中から富士山が見えた時に、ああ、日本に帰って来たんだなあって安心した」
「やっぱり富士山は日本の象徴なんだね」
「ここから芳樹の行くフランスは見える?」
「さすがにそれはないね」
「フランスってどっちの方角?」
美緒はそう言って窓の方にぐっと顔を近づけた。僕も美緒に寄り添うようにして窓から夜景を臨んだ。窓に張り付くようにして見る夜景は更に美しかった。様々な光の粒がその窓からずっと遠くまで広がっていた。それはまるで天空のようだった。
その途端、その視界がさえぎられた。僕が窓に近寄りすぎて、息で窓が曇ったらしい。僕は慌てて窓を手のひらでこすると、さっきとは違って窓がおぼろげになった。さっきまでの星の光が、雨の日のフロントガラスのようになった。
「雨の日の車の中みたい」
美緒がすかさず、そう言った。
「ごめん、ごめん」
僕はテーブルにあったナプキンで窓を丁寧に拭いた。今度は先ほどと変わりないくらい窓がきれいになった。
「これならどう?」
「まだにじんでるよ」
「嘘、どこ?」
僕はもう一度ナプキンを手にとって窓を拭き直した。
「これならどう?」
「うん」
僕は美緒の顔を覗き込んだ。
「ごめん」
そう言った美緒の目は潤んでいた。僕はどうしたの、と声を掛けたかったが、それを言葉には出来なかった。
「フランスってどっちの方なの?」
「え?」
「あのビルのずっと向こう?」
「あ、うん」
「そっか、あのずっとずっと先なんだ」
僕は美緒の手を握った。指と指を絡めて、そして強く握った。しかし美緒の握り返す力は弱かった。
「手紙書くよ」
僕は思ってはいなかったことを言った。僕はこれきり美緒には連絡をしないつもりでいた。それを美緒の涙に負けたのだろうか。そんなことを口走っていた。
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