あなたの空に届け

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第4章  それから2週間後の日曜日、私は彼と原宿で待ち合わせをした。 「竹下口の切符売り場の脇で午後2時に」  彼からはそう誘いのメールが届いた。私はそれから約10日間、その日が待ち遠しくて仕方なかった。 その約束の日、私が改札口を出て目の前の竹下通りに気を取られていると、左側から声を掛けられた。見ると彼だった。 「竹下通りはいつも凄い人ですね」 「あ、はい」 「お昼は食べましたか?」 「いいえ」 「お腹空いてないですか?」 「あ、はい」 「表参道の脇を入ったところに美味しいパスタ屋があるから、そこで先ずはランチをしましょう」  私はうなずいて彼について行った。日曜日の原宿は凄い人だった。改札口の前の横断歩道を渡ると見動きすら出来なそうな竹下通りを左手に見ながら、真っ直ぐ表参道へと向かった。私は彼を見失っては大変だと思って、必死で彼の後ろ姿を目で追った。 表参道も相変わらず人がたくさんいたけど、それでもさっきよりは呼吸が楽なくらいの人数になったので、やっと彼と並んで歩くことが出来るようになった。 「身長いくつ?」  彼がそう私に聞いて来た。 「155です」 「そっか」  私は彼の身長がいくつくらいなのかと思った。私よりはずっと高かったので、170か、180か、もうそうなると全くわからなかった。 「近藤さんはいくつなんですか?」 「え?」  彼は私を見下げて一瞬困ったような顔をした。でもそれは一瞬ですぐに元の精悍な顔に戻った。 「26」 「え?」  私は身長を聞いたのに、彼からは違う答えが返って来たので一瞬びっくりした。そのびっくりが笑いに変わった。彼は私が何故笑ったのかわからないようだった。 「私は19です。先月なったばかりです」 「じゃあ7つ違いか」 私は彼が見た目よりずっと大人だと思った。 「大学生かなと思ってました」 「よく言われるけど、就職して3年目かな」  バイト先のお店で会っていた時は私よりも少し上くらいに思っていたのが、こうして実際に話をしてみるとやっぱりずっと大人の人という感じがした。 「美緒さんは大学1年生だったよね」 「はい」 「1年生だとまだ就職云々ということもないよね」 「はい」   彼が突然角で曲がったので、私も慌ててその後をついて行った。 「この少し先にそのパスタ屋さんがあるから」  私は笑ってうなずいた。 そこから少し行くと、お洒落な感じの店構えのパスタ屋さんがあって、そこに彼が入って行った。私は彼に少し遅れてその中に続いた。それから席について、さて何を注文しようかとメニューを見ると、そこにはたくさんの種類のパスタが並んでいて、どれにしようかと迷ってしまった。メニューには私の好きなパスタが目白押しだった。これもいいし、あれもいいと思っていると収拾がつかなくなってしまった。 私が早く決めなくてはいけないと焦り出した時だった。彼が私の方を見て言った。 「何にする?」 「どうしよう……」  私は困ったという顔をした。 「僕はこのお店ではいつもミートソースにするんだ」 「え?」 「ミートソースがここの一番の自慢らしくてね」 「そうなんですか」 「それを聞いて一回試してみたらもうダメ。それ以来ここではもうそれって決めてるんだ」 「へえ……」 「良かったら試してみて」 「じゃあそうします」  彼は手を上げてお店の人を呼ぶとミートソースを二つ注文した。私は特にミートソースが好きだということはなかったけど、彼がそこまで言うのならと、彼の勧めるそれにしてみた。 「まだあのお店で働いているの?」 「和菓子のお店ですか?」 「うん」 「いいえ」 「そうなんだ。もう辞めちゃったんだ」  私は今、喫茶店でウエイターをしていた。ある国家資格が欲しくて、その勉強を始めたら毎日のアルバイトがさすがに厳しくなった。それで週に二度の勤務で済む喫茶店のアルバイトに変えてしまった。 「近藤さんは、かりんとうが好きなんですか?」 「え?」 「毎日買って行かれてたので」 「あ、そうだね」 「和菓子のお店に若い男の人が毎日来るのが珍しかったのでよく覚えているんです」  彼が笑った。 「そうだよね。僕も最初は恥ずかしかったし」 「恥ずかしかったんですか?」 「うん」 「そうなんですか」 「だって、甘いものを毎日買って行く男って、なんか変じゃない?」 「変じゃないですけど、珍しかったです」 「その珍しいということが変だってことじゃない?」 「あ、そうですね」  その時、私たちのテーブルに美味しそうな香りを撒き散らしながら出来たてのミートソースが運ばれて来た。 「わあ、おいしそう!」  私は思わずそう叫んでいた。その立ち込める湯気の中から渦を巻いて広がる香りは、そのパスタを食さなくてもはっきりとわかる美味しさが溢れていた。私はスプーンとフォークをテーブルに置かれていた籐の籠から取り出して、もうパスタをすくっていた。 「美緒さん、スプーンはお子さまが使うんだよ」 「え?」  一瞬何のことかわからなかったけど、彼がフォーク一本で巧みにパスタを絡めて行くのを見て、その意味がわかった。 「ごめんなさい。私、お子さまです」  私はそう言って、スプーンとフォークを駆使してパスタを絡めて行った。フォーク一本ではとてもパスタを食べられなかったからだ。 「どう? 最高でしょ?」  暫くして彼が私にそう聞いて来た。でも私は彼にそう聞かれる前から、これは今まで食した中で最高のミートソースだと彼に言おうと決めていた。 「うん!」 「そう思ってくれて良かった」  彼はそう言って、私を見て微笑んで、そしてまたパスタを絡め出した。 「近藤さん―」 「芳樹でいいよ」 「……」 「僕のことは芳樹と呼んでくれていいよ」 「じゃあ、芳樹、さん……」 「僕は美緒でいい?」 「はい。ずっとお兄さんだし」 「お兄さんだからか」  そう言ってまた彼が笑った。 「芳樹さんは自由が丘に住んでるんですよね?」 「うん」 「じゃああのお店は遠くなかったですか?」 「そうだね」 「いつもお仕事の帰りに寄られていたんですか?」 「うん」 「スーツじゃないんですね」 「そうだね。外回りをする時はスーツなんだけど」 「じゃあ銀座で会った時は外回りだったんですね」 「うん」 「会社はどこなんですか?」 「会社は渋谷」 「じゃああの和菓子のお店にはどうして?」 「そうだね。吉祥寺の駅ビルだったから方向が違うよね」  彼はそう言うとパスタを絡める手を止めて、フォークを皿に置き、そして水の入ったグラスを持った。 「あのお店が便利な場所にあったからなんだ」 「便利な場所?」  私にはその答えが意外だった。 「うん。ある場所に行くのにね」 「ある場所?」 「そこでね、隠れてかりんとうを食べてたんだ」 「え? それって誰かにかりんとうを食べることを禁止されていたとか?」 「ははは。そういうことかな」  私は彼の話が益々わからなくなった。 「それって、そんなにかりんとうが好きだったとか?」 「そうだね。好きだったよ」 「そうなんですか」 「うん」 そこで会話は止まった。彼は何かを考えているようだった。彼はグラスの水をちょっと口をつけると先を続けた。 「ある人が、そのかりんとうが好きだったんだ」 「ある人って、芳樹さんではなくて?」 「うん。僕じゃない」 「どなたか聞いてもいいですか?」 「僕の母なんだ」 「お母さん?」 「うん」 (お母さんのために毎日遠回りをして?) 「母が、かりんとうが大好きで、それで毎日買って行ってたんだ」 「お母さんのために、毎日かりんとうを?」 「うん」 「わざわざ遠回りして」 「マザコンかな?」 「いいえ、そんなことは」 「ほんとに?」 「はい」  彼は、ほんと? という顔をして私を見た。 「よっぽど、お好きなのですね?」 「え?」 「かりんとうが」 「あ、そうだね」 「そして、お母さんも」 「あ、そうだね」  彼が照れた笑いをした。ここで話が一旦途切れたので、私もグラスの水を少し飲んだ。私のお皿のパスタはなくなっていた。すると私がグラスを置くのと同時に再び話を始めた。 「母の入院していた病室に持って行ってたんだ」 「お母さんが病気だったの?」 「うん。それで病院では、かりんとうは出ないし、病院の売店にも売ってなかったので、それで毎日美緒のお店に寄って買って行ってたんだ」 「じゃあ病院て」 「吉祥寺南町病院」 「あ、知ってる!」 「うん。そこ」 「そうだったんですか」 「うん。1か月くらいお見舞いがてらに、かりんとうを持って行ってた」 私は彼が毎日毎日かりんとうを買って行く理由を初めて知った。 「それじゃあ今は退院されたのですか?」  彼が来なくなった理由はそうだと思った。 「うん」 「じゃあ今はお元気になって」 「他の病院に変わったんだ」 「え?」 私は彼が突然お店に来なくなった理由も知った。
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