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第7章
芳樹が一度だけ、私のバイト先の喫茶店に来たことがあった。芳樹がそのドアを開けて入って来た時、私は一瞬止まった。
(嘘!)
まさか、芳樹がここに来るとは思っていなかった。私は急に緊張してしまって、次の行動に戸惑った。でも、もう一人のウエイターが休憩中で、私しかフロアにいなかったから、仕方なく私が芳樹に注文を取りに行った。芳樹は私を見て微笑んだ。そして軽くうなずいて挨拶をした。
「どうして?」
私は小声でそう言った。
「美緒の働いている姿が見たくなって」
「緊張する」
「その緊張した姿が見たかった」
私は返答に困った。
「アイスコーヒー?」
芳樹の喫茶店での注文はどこでもそれだったので、私はそう聞いてみた。
「うん」
芳樹は私がフロアを動き回るのを小一時間見ていた。もしかしたら私のバイトが終わるのを待っていて、一緒に帰るのかと思った。しかし、彼は突然レシートを持って立ち上がるとレジに向かって来た。私はそれを見てレジまで急いだ。
「今日は帰るよ」
「うん」
私はじっと芳樹に見られていて恥ずかしい思いをしたが、彼が帰ってしまうと、それはそれで寂しかった。
「ウエイター姿の美緒も可愛いね」
バイトが終わって携帯を見ると、そう彼からメールが届いていた。
「私は見世物ではありません」
私はそう返信した。
「美緒をずっと見ていられて、320円だなんてお得だね」
そのお店ではアイスコーヒーが320円だった。
「私って320円の価値しかないの?」
「あのお店に来るみんなが美緒を見に来てるんだから、その人達の払う金額を合わせたらすごい入場料じゃない?」
「やっぱり私って、見世物だ」
でも、芳樹にならずっと見つめられても私は構わないと思った。
第8章
「美緒は音楽好き?」
「うん」
「どんな音楽が好き?」
「うーん。ガチャガチャうるさくないのが好き」
「そっか、うるさいのは嫌か」
「どうして?」
「うん。実はコンサートのチケットがあるんだけど」
「え? 誰の?」
「ガチャガチャうるさいバンドの」
「行くよ! 行く、行く!」
「ほんとに?」
彼が私を覗き込んだ。
「うん。行きたい」
「Vリレーションズっていうメロディアスなロックバンドなんだけど」
「うん。行くよ」
私はVなんとかも、メロなんとかもわからなかったけど、でも彼となら絶対に行きたいと思った。
「じゃあ今度の金曜日ね」
「何時からなの?」
「19時開演だから、18時半に後楽園駅のホームね」
「うん」
「東京駅に向かって一番後ろの車両を降りたところで待ってて」
「うん」
私は久しぶりに彼に会えたことだけで舞い上がっていた。それにライブも初めてだった。クラシックのコンサートはよく父に連れて行ってもらったけど、ガチャガチャとうるさいライブは初めてだった。
ライブ当日、私は待ち切れなくて待ち合わせの時間よりもかなり早くそこに着いていた。既に帰宅ラッシュが始まっていて、サラリーマンの数がかなり多かったけど、それに加えてそのライブに来たと思われる人がたくさんいた。
(この人たちがみんなドームに行くのかしら)
ホームから外を見ると、駅から改札を抜けて会場に向かっている人が大勢見えた。
(うわー)
私はその人の数だけでめまいがしそうだった。そこに上りの電車が到着した。そしてドアが開いて、降りて来る人の中に彼がいた。
「早いね」
「うん」
「じゃあ行こうか」
「うん」
それから私は決して彼からはぐれないように注意しながら、ドームに向かう大勢の人の中を突き進んで行った。
(待って)
ところが迂闊にも私は彼の姿を見失ってしまった。
(嘘)
私は突然の不安に襲われた。私は大勢の知らない人の中に取り残された。四方を見ても人、人、人だった。周りにはたくさんの人がいるのに私は一人ぼっちだった。
「こっちだよ」
その時に、誰かの手が私の手をつかまえた。それは彼だった。私は一瞬涙が出そうになったが、彼の手に捕まえられて安心した。それからは彼にぴったりくっついて歩けた。
「ほらもう着いたよ」
「すっごい大きい!」
私は彼の言う方を見ると、そこに大きな壁で囲まれた建物が見えた。私は野球観戦でもここには来たことがなかったので、その建物の大きさにまず圧倒された。
「ここが人で一杯になるんだよ」
「うん」
「お客さんがここに5万5千人入るんだよ」
「そんなに!」
「爆音と絶叫と光の洪水に失神するかもしれないよ」
「えー」
私は彼の冗談のような、でも半分本気のようなその話にちょっと心配になった。入口でチケットを出してそれから会場に入ると、中はもっと凄いことになっていた。あれだけの沢山の人がこの中に消えて行ったのに、その人の数を感じさせないほどの広大な空間がそこにはあった。
私が緊張気味に椅子に座ってると、ずっと立ち見になるから、今のうちに休んでおくといいよと彼が言った。
「ずっとスタンディングオベーション?」
「え? うん、まあそんなところかな」
クラシックではまず立ってなんか聴かないので、それを知って益々ワクワクして来た。
「テレビで観たことあるでしょ。ステージの前で立ったり、踊ったり、飛び跳ねたりしてるの」
「うん」
「あんな状態になるよ」
「え! ここも?」
「うん。跳ねるよ」
「私も跳ねるの?」
「うん。ぴょんぴょんとね」
私はヒールのない靴を履いて来て正解だと思った。
気がつくと私の周りの席もいつの間にかお客さんで一杯になっていた。
「ほんと、凄い人」
その途端、会場の照明が落ちた。そして会場がどよめいた。
「始まるよ」
そう言った彼の白い歯だけが見えた。それから私を取り巻く観客の歓声が上がった。そして電気的な音が鳴った瞬間、私の耳がキーンと鳴った。私は一瞬で爆音の渦に呑み込まれた。
手が痛くなるほど手拍子をした。
隣の人とぶつかりながら飛び跳ねた。
笑った。
叫んじゃった。
知らない人とも笑い合った。
何度目かのアンコールが終わると、会場が明るくなって、そこでお祭りが終わった。
「良かったね!」
「うん!」
彼の笑顔がそこにあった。私もきっといい笑顔になっていると思った。私は知らない間に彼の腕につかまっていた。私はずっとそうしていたかったけど、会場を出て駅に着くとスイカをバックから取り出す時に彼から手を離してしまった。一度その状態が解除されてしまうと、再びその状態に戻るのが気恥ずかしかった。
「これで帰っちゃうのもったいないね」
私は芳樹のその言葉に、ほんとにそうだと思った。このままどこかへ繰り出したい気分だった。
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