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第9章
私はそれからVリレーションズにはまった。芳樹と次に会った時に彼らのCDを彼が貸してくれた。私はガチャガチャうるさい音楽が好きになった。
「今度ライブやるんだけど、美緒来る?」
「ライブ? 誰の?」
「僕の」
「え?」
「バンドやってるんだ」
「芳樹が?」
「うん」
私はその時に彼がいつだったかギターケースを抱えてお店に来たことを思い出した。
「どんな音楽をやるの?」
「ガチャガチャしたやつ」
「え! 聴きたい!」
「うん」
「いつやるの?」
「今度の土曜の夜」
「うん。行く」
私は芳樹がバンドをやっているなんて知らなかった。芳樹はきっと自分の部屋で一人でギターを抱えて静かな曲を弾き語りをしているのだろうと思っていた。
「芳樹ってボーカル?」
「ううん。ギター」
「ギターなんだ!」
私はこの前のライブでギタリストに憧れた。それで芳樹がギターを弾くと聞いて、飛び上がらんばかりに喜んだ。
「いいだろ?」
「うん。芳樹がギターを弾いてるとこ見たい」
私は次の土曜日が楽しみでたまらなくなった。
「じゃあ、ここのところずっと忙しかったのって、もしかしてその練習?」
「うん。美緒を驚かそうと思ってね」
「うん。驚いた」
こんなドッキリだったら、いつでも歓迎だった。
芳樹のバンドのライブは渋谷のライブハウスで行われた。そこは一流ミュージシャンがよくライブをする場所で、そこそこ有名なライブハウスだと芳樹が説明してくれた。それから芳樹はこんなミュージシャンも、こんなベーシストも、こんなドラマ―も出演してるんだと話してくれたけど、私はその中の誰も知らなかった。
ライブ前日、彼はリハーサルだと言ってかなり遅い時間に自宅に戻ったようだった。彼からのただいまのメールは私が寝てしまった後に届いていた。
翌日彼の家に行くと、眠たそうな彼が出て来た。
「大丈夫?」
「うん」
「寝てないの?」
「二、三時間は寝たよ」
「平気?」
「うん。大丈夫。メンバーが今から車で迎えに来てくれるから」
玄関の前に二人で立っていると、それから少しして目の前で車が止まった。どうやらそれがメンバーの人らしかった。彼はその車にギターケースを積み込むと後部座席に身を投げ入れた。私はその運転手さんに、こんばんはと挨拶をして芳樹の横に乗りこんだ。
「おはよう」
運転手さんがそう言って車を発進させた。
「夜でもおはようって言うんだよ」
彼がそう説明してくれた。
(そうなんだ)
私はどうして、と思ったけどそのまま聞き流した。車の中ではガチャガチャした音楽がずっと流れていた。車はそのまま走り続けてやがて会場の駐車場に止まった。
「着いたよ」
「うん」
運転手さんにそう言われて、彼はそう言って起きた。彼はずっと車の中で寝ていた。
「平気?」
私はやっぱり心配でそう声を掛けた。
「うん。平気! 少し寝たから、ずっと楽になったよ」
彼は車の後ろからギターケースを引っ張り出して颯爽と会場の方へ歩き出したので、私も少し速足で彼の横に並んだ。
「なんかマネージャーみたいだね?」
「誰が?」
「美緒が」
「え?」
彼と会場に入ると、既に他のメンバーが中にいた。私は彼に自分のマネージャーだと紹介された。
「芳樹、いつマネージャーなんか雇ったの?」
「どこで見つけたの?」
「いくつ?」
メンバーの質問には彼は一切答えずに笑っているだけだった。私も彼の隣でただ笑っていた。
運転手さんが会場に入って来ると、リハーサルが始まった。私は彼のギターを早く聴きたくてドキドキしていた。
彼がケースからギターを取り出すとそれを肩から抱えた。ワインレッドのとてもきれいなギターだった。コードのようなものをギターとよくわからない機械に差し込んで、その機械から出ている別のコードをアンプにつなげていた。それから暫く機材の調整をした後で突然彼がこちらに向き直った。
途端、ギターが鳴った。ドキっとした。芳樹が軽快にギターを弾いていた。ギターってこんな音がするんだと改めて思った。この前のライブでも素敵な音だと思ったけど、芳樹の奏でる音は、それとは比較にならないほど私の胸をえぐった。心臓のドキドキが止まらなかった。そして芳樹の滑らかな指の動きに目が釘付けになった。
リハーサルはあっと言う間だった。
「芳樹、すごい!」
私はステージから戻って来た芳樹に思わずそう言った。
「リハーサルでの芳樹はいつも手抜きだから」
メンバーの一人がそう言った。
「え?」
私はどういうことかと思った。
「芳樹の本番でのプレーは凄いよ」
(そうなんだ)
「さっきのでもあんなに凄かったのに」
リハーサルが終わると、メンバーは控室に移動した。お客さんがそろそろ会場に入って来る時間だった。私はどうしようと思っていると、関係者なんだから一緒に来てと芳樹が手招きをした。
本番10分前には会場が一杯になった。ドームに比べればその人数は比較にはならないけど、熱気は寧ろこの会場の方が凄いと思った。今日ここに来ているお客さんはみんな芳樹のバンドのファンなのかと思ったら、なんか彼が特別な存在に思えた。会社帰りに都会の喫茶店で優しく話をする芳樹と今日の芳樹はまるで別人だった。
やがて開演のベルが鳴った。
「じゃあ行って来るね」
彼はそう言って私を軽く抱きしめた。
「え……」
彼は笑顔で私から離れると、ギターを抱えてステージに向かった。
演奏はドラムのスティックを打ち鳴らす音で始まった。ギターの爆音がいきなり心臓に飛び込んで来た。私はその瞬間にやられたと思った。彼の艶のあるギターの叫びが私の魂を鷲づかみして、そして激しく揺らした。私は息も出来なかった。さっきのリハーサルの時とは比べ物にならない衝撃が私に走った。私はその場で動けなかった。まるで金縛りにあったようだった。彼は自由奔放に私を丸裸にして、そしてあの滑らかな指使いでその上を這い回り、そして私を蹂躙した。
バンドの演奏は休む間もなく、最後の一曲まで突き進んだ。そしてその終わりには大きな余韻を残しながら、その渦がゆっくりと収束した。
「お疲れ様」
スタッフやお客さん、そしてこれからステージに上がる別のバンドのメンバーに、そう声を掛けられながら彼が戻って来た。
「ギターの芳樹さんのバンドがどうして僕らの前にやるのか、いつも疑問に思っています。ここの箱のオーナーの根岸さんに再三順番を変えてくれと言っても、なかなかそうしてもらえず本当に困っています。なんとかしてください」
次のバンドのボーカルがステージでそうしゃべってるのが聞こえた。
「美緒、おなかすいちゃった。何か食べに行かない?」
彼のその言葉で、私はやっと我に帰った。
「次のバンドの演奏を聴かなくていいの?」
「普通はそうなんだけど、彼らが消えてくれって言うから」
「そうなんだ」
私は芳樹の話が本当なのかわからなかったけど、朝から何も食べてない彼が心配になって、それでみんなでファミレスに行くことにした。
ファミレスに着くと、芳樹が美緒と同じものでいいと言って、いきなりトイレに行ってしまった。私は仕方なく、彼が好きなミートソースを注文した。
トイレから戻って来ると、芳樹の顔が濡れていた。顔を洗ったのだと思ってバッグからタオルを出して渡した。
「ありがとう」
彼はそれを受け取ると私の隣に座った。
「しかし、今日の芳樹のギター良かったな」
「今日もだけどね」
他のメンバーが今日の演奏の講評を始めた。
「皆さんの演奏、凄かったですね」
「ありがとう」
ドラムの人が代表してそう答えた。他のメンバーは芳樹以外頭を下げた。
「演奏する順番でやっぱり上手いとか下手とかあるんですか?」
私は次のバンドの人が言っていたことが気になったので、そう聞いてみた。
「やっぱりベストのバンドが一番最後でしょう」
(そうなんだ)
「じゃあ、このバンドが最初だということは……」
「芳樹のわがまま」
「え?」
「本当はね。僕たちに一番最後になってくれって言われてるんだけど、芳樹が他人の演奏を聴きたくないっていうから、さっさと演奏して、その後はいつもこうしてファミレスで休憩してるの」
「え!」
私はちょっと芳樹が酷いと思った。
「でも、他のバンドも芳樹に自分たちの演奏を聴かれたくないというのも本音だしね」
「え?」
「やっぱり、お粗末な演奏は恥ずかしいでしょ」
(そうなんだ)
私は芳樹の別の一面を垣間見た。いつもは優しくて温和な彼が、音楽に関しては別の人格になっていた。こだわりがあって、しかもその才能はずば抜けたものがあった。私は一瞬にして、彼のギターの虜になってしまった。
「皆さんプロにはならないんですか?」
「成り行きかな」
その時に、私たちが注文した料理がテーブルに運ばれて来た。
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