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第10章
芳樹に誘われて彼のバンドのライブを見に行って1週間が経った。私はまだ彼のあの時のギターの音が忘れられなかった。それで、今日は芳樹の仕事が終わった後、恵比寿の美味しいうどんのお店に連れて来てもらったのに、彼のスーツ姿がどうもおかしくて、メニューよりもそちらばかり気になっていた。
「美緒、何かおかしい?」
「ううん」
「さっきから僕をちらちら見て笑ってる気がする」
「ううん」
「何か付いてる?」
「ううん。付いてないよ」
「じゃあどうして?」
彼が自分の格好を確認して、最後はお手上げという顔をして私にそう言って来た。
「だって、ライブの芳樹とギャップがあり過ぎるから」
「え?」
「ギターを弾いている芳樹と、今のスーツ姿の芳樹は全く別人だもの」
「そうかな?」
彼が笑ってそう言った。
「そうだよ」
「そうか」
「うん」
勿論、芳樹のスーツ姿が格好悪いということではなかった。彼のスーツ姿もとても素敵だった。でも、それとは全く別のミュージシャンとしての姿もやっぱり格好良かった。
「美緒、大学どう?」
「え?」
いきなり何を聞かれるのかと私は思った。それは突然の話題だった。
「うん。まあまあだよ」
「そっか。まあまあか」
「うん」
「今って建築の勉強だっけ?」
「うん」
「将来は?」
「将来?」
急に将来のことなんて聞いてどうするのかと思った。
「うん。建築の勉強というと、将来は建築士?」
「うーん」
「ん?」
「宅建でも取ろうかなって思ってる」
「宅建?」
「うん。就職に有利かなと思って」
「まあ確かに資格は有利かもね」
「うん」
「美緒って第1志望が建築だったの?」
「え」
「建築士になりたくて、そこに入ったの?」
「ううん」
「じゃあ、何になりたかったの?」
「うん」
私はこの質問にはあまり答えたくなかった。
「……」
でも彼は黙って私の答えを待っていたので、仕方なくその話をした。
「医者」
「え? 医者?」
「うん」
「美緒の家って医者?」
「うん」
「そうなんだ」
「そう」
「兄弟とかはいるの?」
「兄が一人いるけど、医者じゃない」
「そうなんだ」
「うん」
「美緒は医学部は受けなかったの?」
「受けたよ」
「うん」
「でも落ちた。それで建築学部に入ったの」
「そうなんだ」
彼はそこまで聞くと、店員を呼んで今日のスペシャルというメニューを頼んだ。私はそれがどんなものなのか知りたかったけど、そういう気分になれなくて、同じものを頼んだ。
「いいの?」
「え……いいよ。芳樹と同じで」
「いや、メニューじゃなくて、医者をあきらめていいの?」
「あ……」
「医者はお父さんの希望だったの?」
「うん。それもあるけど」
「それも?」
「私もだから」
「なんだ。美緒も医者になりたかったんじゃん」
「うん」
「じゃあ簡単に夢をあきらめちゃっていいのかな?」
「……」
「今からでも遅くないんじゃない?」
「え? また受けろっていうこと?」
「うん。だって美緒はまだ一年生でしょ? 一浪なんて掃いて捨てるほどいない?」
「それはそうだけど」
「必死になって頑張ればきっと受かるよ」
「無理だよ」
「無理じゃないよ」
「だって、私あれだけ勉強したのにダメだったんだもの」
「後少しで落ちたのかもしれないよ」
「それに」
「それに?」
「私すっかりあきらめちゃったから」
「じゃあ明日から頑張れば?」
「ずっと怠けちゃったから」
「それは今日で終わりにして、明日から頑張れば?」
「私そんなに頭良くないし」
「そんなことないよ」
「私、芳樹みたいに優秀じゃないから」
「え?」
「芳樹みたいに、仕事も出来て、ギターもあんなに上手くて、そんな才能なんてないし」
「……」
私は自分の痛いところを突かれて、良くないことを言ってしまったと思った。
「うん。無理強いは良くないよね。ごめんね」
謝ったのは芳樹からだった。
(あ)
私は謝り損ねた。
「才能があっても、それを燻らせている方が罪深いのかもしれないね」
(え?)
私は彼が何を言いたいのかわからなかった。
「僕ね、どうしても叶えたい夢があるんだ」
芳樹が突然真顔で私の顔を見てそう言った。
「夢?」
「うん」
「どんな夢?」
「ギタリストになりたい」
「ギタリスト?」
「うん」
「え? じゃあ、なったらいいんじゃない?」
私は突然のことでとりあえずそう言った。
「フランスに行って勉強をしたいんだ」
「フランスへ?」
「うん」
「そこで勉強したいの?」
「うん。フランスのコンセルヴァトワールに行って、しっかり音楽を学んで来たいんだよ」
「それが夢なの?」
「うん」
「わかった。じゃあ、応援する」
「ありがとう」
「でも、それってどれくらい勉強するの?」
「3年くらいかなあ」
「そんなに?」
「うん。ちゃんとした学校だからね」
「プチ留学とかじゃないんだ」
「違うよ。日本で言えば芸大みたいなところだから」
「そんなに凄いところなんだ」
「うん」
「でも、応援するよ。芳樹が本当にしたいことだったら、絶対にやった方がいいと思うし」
「うん」
「でも、いつ行くの?」
「うん」
「?」
「9月が入学式だから……」
「え? じゃあ、もうすぐ?」
「うん」
「……急だね」
「うん」
私はあまりの急な展開に思考がついて行かなかった。その日はそこで食べたうどんの味が家に帰ってから思い出せなかった。私は彼のフランスへ行くという言葉と、そして今の私に夢がないという事実に呆然としていた。
「美緒は夢ってある?」
私はその夜、ベッドの中で彼のその言葉を繰り返していた。それで私の思考はそのことに全面的に引き寄せられてしまった。もうすぐ芳樹がフランスへ行ってしまうのかと思いながら、それとは反対の極に私の夢って何だろうと思う思考が生まれて、そちらに急激に引っ張られてしまった。
「美緒の夢」
私はそう言われて、私の夢がなくなっていることに気が付いた。私が医学部を受けると言った時、家族は喜んだ。私の家は開業医だった。兄が一人いたが、兄は普通の大学を出て商社に入ってしまっていた。私は女だったので早くお嫁に行きなさいと言われていたこともあって女子大を志望していた。それがあの日本が震撼した日、私の伯母の命を奪ったあの震災を機に医者として世に役立ちたいと決意した。
それでそのことを父に話すと父は何も言わずに私の手を握ってうなずいてくれた。私はそれから医学部受験に向けて夢中で勉強をした。受験直前の合格率は80%までになっていた。しかし、本番には落ちてしまった。私は来年もう一度チャンスをくださいと懇願したが、女子は浪人などするものではないと諭されて、それで仕方なく今の大学に入学したのであった。
でも同時に夢をなくしていた。もっと言えば大学に通う意味もなくしていた。その中で芳樹と出逢った。芳樹といると楽しかった。楽しさはやがて生きる意味を私に与えてくれた。私は幸せになるために生きて来たのだと。そしてその幸せはやがて、芳樹と一緒に人生を歩むことで生まれて来るのだと思った。芳樹と理解し合って、ずっと一緒にいたいと思って、そして一緒の夢を追い掛けようと思った。
一緒の夢
それは芳樹の良き協力者となって彼の夢を叶えることだった。そしてその夢は彼がフランスのコンセルヴァトワールに入学して立派なギタリストになるということだった。彼はそのためにフランスへいずれ出発する。でも私は日本に残って彼の帰りをひたすら待つ。
―私は残る―
私はフランスへ行けない。彼は恐らく私を連れて行ってくれないだろう。そもそも私は日本の大学生、フランスなんかには行けないのは当たり前。私はいま建築関係の勉強をしていて、それで宅建を取ってそれで……。
私は彼が日本に戻って来るまで彼の帰りをじっと耐えて待つ。それが今の私に出来ること、私が彼にしてあげられることだった。でも、そう思うと涙が出て来た。悲しくなんてないのに涙は次から次へとこぼれた。
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