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第11章
次の日曜日、芳樹と待ち合わせて神宮外苑を散歩した。原宿から渋谷まで行く途中に出店していた屋台で焼きそばを買って、ストリートミュージシャンのパフォーマンスを見て、そしてCCレモンホールまでを歩いた。
「たくさん歩いたね」
「疲れた?」
私はそういうつもりで言ったわけではなかったけど、彼がそう聞いて来た。
「ううん」
「ちょっと休もうか」
私たちはそれで近くの喫茶店にでも入ろうということになった。目の前のスクランブル交差点が赤だったので信号が青になるのを待っていた。すると後ろからお尻の辺りに何かが何度もぶつかったので振り返ると二、三歳くらいの男の子がそこに頭をぶつけていた。
「あ、ごめんなさい」
その男の子の後ろにはもっと小さな女の子と手をつないだお母さんらしき人が立っていた。
「海人、だめよ。お姉さんにごめんなさいして」
「間違えちゃった」
その男の子は私とお母さんとを間違えて私にわざとぶつかっていたらしい。男の子は私の方は見もしないで、お母さんの後ろに回って私にしたようにお母さんのお尻に頭をぶつけ始めた。
「あ、いて」
男の子はそう言いながら、何度もお母さんにぶつかっていた。
「海人、やめなさい」
お母さんが注意しても、その子は一向にそれを止めようとはしなかった。小さな妹は我関せずと、黙ってお母さんと手をつないでいた。
「かわいいね」
私が思わずそう芳樹に言った。
「え?」
「あの子たち、かわいい」
「あ」
彼は私にそう言われて、周りを見回して初めて彼らの存在に気が付いたようだった。
「あ、いて」
その子はまだ同じことを繰り返している。
「海人、いいかげんにしなさい!」
お母さんが遂にきつい言い方に変わった時、信号が青になった。お母さんが勢いよく進みだすと、男の子がぶつかる目算がずれて大きく前のめりになって転びそうになった。
(危ない!)
私がそう思った時だった。お母さんが素早くその男の子の手をひっぱって、事なきを得た。
「美緒、止まってないで渡るよ」
「あ、ごめん」
私は芳樹に促されてその場から遠ざかった。
私たちはフランチャイズのコーヒーショップに入った。どこも混んでいたので、一番近かったそのお店に休憩の場を決めた。
「かわいかったね」
私は横断歩道で出逢ったあの子たちの話をした。
「誰が?」
彼はあの子たちを見ていなかったようだった。
「さっきスクランブル交差点で可愛い男の子と女の子がいたの」
「それで美緒が立ち止まってたんだ」
「うん」
「男の子がお母さんにわざと何度もぶつかっててね―」
「甘えてるんだね」
(あれって甘えてるんだ)
「女の子はお母さんと手をつないでじっとしてるの」
「お兄さんと妹?」
「うん」
「じゃあ妹にお母さんを取られてフラストレーションがたまってるのかな」
「そっか」
彼はこの話には関心を示さなかった。
「お兄ちゃんと妹って美緒のところと同じだね」
「うん」
「美緒って」
「うん」
「どうして美緒っていうの?」
「え?」
「美緒の名前の意味って?」
「美しい緒だよ」
「美しいはわかるけど、緒って?」
「端緒の緒」
「あ、そうか」
「美しさの糸口とか、手掛かりっていう意味なんだって」
「糸口?」
「最初から美しいわけじゃないの、でも美しさは具えているの。だからそれを磨いて本物の美しさを手に入れて欲しいっていうことらしい」
「へえ」
「芳樹は?」
「僕は良い香りがする樹だって。なんかホストみたいだよね」
「良い香りがするって、なんかぴったり」
「そう?」
「うん」
彼はそう言って照れた。
「芳樹は名前にぴったりの感じだよ」
「美緒もぴったりだね」
「そう?」
「うん」
「名前って不思議ね」
「え?」
「そういう名前にすると、そういう人になるんだね」
「名前負けという言葉もあるけどね」
「うん」
私は芳樹にそう言われて、何人かの顔が浮かんだ。
「私ね」
「うん」
「子どもの名前……」
「子どもの名前?」
「うん。旦那さんと二人の名前を合わせたものなんて素敵だと思うんだ」
「例えば?」
「うん……」
「例えば僕らだったら?」
私が黙ってたので、芳樹がそう促してくれた。でも、彼はそう言った後、恥ずかしそうにうつむいてしまった。私も顔が熱くなった。
「男の子なら、芳樹と美緒から一字ずつ取って、芳緒」
「芳緒か」
「うん」
「女の子なら?」
「女なら美樹」
「美樹か」
「うん」
私は本気でそう思っていた。でも、その話は先が続かなかった。芳樹もどう話を膨らませたらいいか困ったようだった。
第12章
「もしもし」
それは芳樹からの電話だった。メールじゃなくて電話が掛かって来たことに驚いた。
「どうしたの?」
時計を見ると朝の5時半だった。メールのやり取りをして寝たのが4時近かった。
「危ないんだ」
「え?」
私はまだ寝ぼけていた。
「母さんが……」
彼の声が切羽詰まっていた。
「え? お母さん?」
「……うん」
「……」
「これから病院に行くから。また連絡する」
「うん」
電話はそれで切れた。私は芳樹の声がとても悲しそうで、それで凄く心配になって、一気に目が覚めてしまった。それから私はベッドでずっと彼からの連絡を待った。でもそれからいくら待っても彼からの連絡はその日にはなかった。私はどれほどこちらから電話をしようか迷った。でもきっと病院でお母さんに付きっ切りだろうと思ったので、それは止めた。
彼からのメールはその翌日のお昼にあった。
「母が他界した。お通夜の日程が決まったらまたメールする」
とても事務的なメールだった。でもその文章の硬さに、彼の強い悲しみが感じられた。これからお葬式の準備で彼は大変だろうと思った。私に何か出来ることはないかと思った。でも、お葬式なんてしたことがないし、何をしたらいいのかもわからなかった。私がそこへ行っても、ただ邪魔になるだけだと思った。そう思うと悲しかったけど、こうしてじっと彼からの連絡を待つことしか今の私には出来なかった。
私は彼の力になりたかった。でもそう思っても自分の無力さを痛感するだけだった。私は頭から布団をかぶるとそのまま泣き崩れた。
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