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第13章
突然一階のリビングにある電話が急に鳴った。その音は階段を伝わって僕の部屋に届いた。その音はけたたましく僕は飛び起きた。瞬間、病院からではないかと思った。数回のコールで一階に寝ている父が出たようだった。父の声に聞き耳を立てたがよく聞こえなかったので、僕は一階に降りて行った。
僕が父の後ろに立つと、父はゆっくり振り返って、お母さんがもうダメらしいと言った。僕はその言葉にそこで固まった。どうしたらいいかわからなかった。母が死ぬと思った瞬間に全ての思考が止まった。
電話を切ると父が慌ただしく動き始めた。これから病院に向かうんだとわかった。それで僕も二階に上がり着替えを始めた。
病院に着くまで父とは無言だった。僕も何を話し掛けたらいいのかわからなかったので黙っていた。急に起こされたような頭痛もしていた。そして何も食べていなかったからか胃のむかつきのような感覚もあった。病院へは行きたくないとそういう思いと早く母に会いたいという矛盾した気持ちが拮抗していた。
病室に入ると母は眠っていた。一瞬死んでいるのかと思ったが、看護師さんは今は持ち直して眠っているのだと言った。僕は良かったと思った。しかし、父の顔を見ると険しかった。
「芳樹」
「うん」
「ここに親戚の電話番号を書いた手帳があるから、これを見て連絡をしてくれ。それから母さんの友達の電話番号もある。そこにも電話をしてくれ」
「どう言ったらいいの?」
「母が危篤です。もし良かったらお越しくださいと言えばいいから」
「うん。わかった」
「無理強いはいけないよ」
「うん」
僕はもう少し母の顔を見たかった。
「早い方がいい」
「え?」
「これは『なかなおり』と言って、ダメになる前に一瞬だけ良くなる状態なんだよ」
「え?」
僕の心臓の鼓動が速くなった。
「親戚や母さんの友達から、こういう状態になったらどんな時間でも構わないから必ず連絡をくださいと言われていてね。だからまだこんな時間だけど、やっぱり連絡をしないわけにはいかんだろう」
「うん」
僕はそれで、そこから飛び出して一階の公衆電話に向かった。
(まさか母さんが死んじゃう?)
僕は夢の中で走っているような錯覚に陥っていた。早朝の電話とあって、最初は眠たそうな声や怪訝な感じの声で相手が出たが事情を話すとみな神妙になった。
僕が病室へ戻ると椅子に座った父が母の手を取り、そして何か小さな声で話をしていた。僕はそれをその場で立って見ていた。父は僕が戻ったのに気が付くと、僕の方を振り返り、売店で何か食べ物を買って来ると言った。
「さすがにお腹が空いたろ」
「うん」
「適当に買って来るから」
父が病室を出て行くと、父の代わりに僕がその椅子に座った。すると父と入れ替わるように看護師さんが病室に入って来た。
「お母さんの手を握ってあげて」
「え?」
「お母さんの手を握るなんて今までないでしょ」
僕は看護師さんにそう言われて、少し照れながら母の手を握った。小さい手だった。やせ細った手だった。血管が浮き出ていて。指先に点滴がつけられた跡があった。僕は今までこんな間近に母のことを見たことがないように思った。母の顔を見るとわずかに目を開けて僕を見ていた。僕は母に声を掛けようと思った。でも何かわざとらしい感じに思えてそれが出来なかった。
父が少しして戻って来た。
「おにぎり買って来たよ」
僕は父からそのビニール袋を受け取るとその中からおにぎりを一つ取った。
「もっと取りなよ」
僕は一つでも食べられないと思った。
「うん」
僕は仕方なく、おにぎりを二つ取った。
「芳樹、誰か付き合ってる人とかいないのか?」
「え?」
僕はこんな状況でいったい何の話だと思った。
「うん」
それでも美緒のことが頭に浮かんだ。
「もしそういう人がいたら今日母さんに逢わせてくれないか」
「え?」
僕は父にそう言われて、そういうことかとわかった。でも、まさか大学1年生の美緒をここへ連れて来るわけにはいかなかった。父は結婚を前提に付き合ってる女性の話をしているのだと思った。そこへあの美緒を連れてくることは出来ないと思った。
勿論美緒のことは好きだった。それは一人の女性として大切な存在だった。もし、こんな状況ではなく、自宅でくつろぎながら父が言ったことだったら、僕は間違いなく美緒を連れて来ただろうと思う。そして父のびっくりした顔をよそに、「美緒です。まだこれからどんどん美しくなっていく端緒だから」とおどけて言うことが出来たと思う。
しかし、今の状況では、悲しいことに美緒では役不足だった。それは僕の彼女には役不足だという意味ではなくて、この状況には相応しくないということだった。それは美緒には失礼なことかもしれなかったけど、僕にはどうしても美緒の名前を父に告げて、美緒をここに連れて来るわけにはいかないと思った。
「あ、芳樹、会社に連絡したか?」
「あ、いけない」
僕は父に言われてそのことを思い出した。それで再びロビーの公衆電話に向かった。
「もしもし」
「あ、芳樹君、どうしたの?」
「課長来てる?」
「まだよ」
この時間にうちの課で既に出勤しているのは、いつもなら僕とこの電話に出た希、そして課長の三人だけだった。
「課長、風邪気味だったでしょ。もしかしたら今日はお休みかな。この時間でまだ来てないし」
「そっか」
「芳樹君も風邪?」
僕とこの前田希とは同期だった。新任研修で隣の席になって以来、配属された課でもお隣さんだった。
「私たち腐れ縁かしら?」
希が飲み会の席でよくそう言った。
「だったら飲み会くらい遠くの席に座ったら?」
そう誰かに言われたが、やっぱり希は僕の隣にいつもいた。
「母が危篤なんだ」
「え! 入院されてたお母さんが?」
「うん」
「大丈夫?」
「うん」
「病院はどこ?」
「自宅の近くの―」
「浅島病院?」
「うん。そこ。でもよくわかったね」
「友達のお見舞いに行ったことがあるから。この近くに芳樹君の家もあるんだなって思って」
「そうなんだ」
「何かお手伝いしなくていい?」
「うん。今のところ平気だから」
「何かあったら遠慮なく言って」
「ありがとう」
僕は希の携帯番号もメールアドレスも知っていた。
「じゃあ今日は1日お休みね」
「うん」
「課長が来たらそう伝えておくね」
「ありがと」
僕はそう言って電話を切った。希の声を聞いて何となく元気が出たような気がした。ロビーから戻る時、携帯にメールが来た。見ると希からだった。
「祈ってるから」
メールにはそう書かれていた。
「今日はお休みにした」
「そうか」
病室に戻ると父との会話はそれだけで、再び沈黙になった。
午後になると親戚や母の友達がパラパラと病室に訪れた。母の友達は誘い合って来たらしく、病室には一度に入れない人数になった。
「近藤さん、頑張ってね」
その中の一人が母の手を握ってそう言った。皆さんが入れ替わり立ち替わり病室に来て、やがて全員が去り、そして一気に静かになると父も僕もどっと疲れが出て来た。
「疲れたろう。今日はお前は帰るといい。父さんは今夜ここに泊るから」
僕は一瞬、僕も今日はここに泊ると言いそうになった。しかし、夫婦の邪魔をしてはいけないと思い、父の言う通りにした。
その時だった。病室のドアをノックする音が聞こえた。今度は誰だろうと思った。僕がはいと返事をしてドアを静かに開けると、それは希だった。
「え!」
僕は言葉が詰まった。
「早退しちゃった」
「希?」
彼女はいつもと違う感じがした。よく見るとほとんどノーメークだった。手には花束を抱いていた。
「芳樹、その方は?」
父が僕の陰になった彼女を必死に見ようと乗り出して来た。
「あ、こちらは―」
「はじめまして、わたくし芳樹さんと同じ会社の前田希といいます」
「前田さんですか。どうぞ中に入ってください」
父は座っていた椅子を彼女に差し出した。
「いえ、すぐに失礼しますので」
彼女は持って来た花束をどうしようか迷っていた。それを父が受け取って、花瓶に入れて、それに水を入れて来ると病室を出た。
「会社平気?」
「うん。課長やっぱり風邪で休みだったから」
「ええ! じゃあ人数足りないんじゃない?」
「今日は特に急用もないから平気。それに例の案件は来月に持ち越したでしょ?」
「ああ、そうだったね」
そこに父がにこにこして戻って来た。父は花瓶を元の場所に戻すと母の傍に寄って水差しで母の唇を濡らし始めた。その様子を希が一心に見つめていた。
「今日は来て頂けて嬉しいですよ」
父が改まって希にそう言った。
「いいえ、こうして来ても何もお役に立てなくて」
「いえいえ、来て頂いただけで、本当にありがたい」
僕はその時、それだったら美緒を呼ぶべきだったと思った。すると希は母の枕元に歩み寄って母の手を取り元気になってくださいねと言った。その様子を父は目を細めて見ていた。
「すみません、今日は突然お邪魔してしまって」
「いえ、こちらもいきなりお呼び立てして」
(え?)
僕は父のその一言で父が勘違いをしていることに気が付いた。
(父さん、この人は)
「それでは今日はこれで失礼させて頂きます」
「本当に今日はありがとうございました」
父と希が向かい合って深々と挨拶をした。僕はその展開に戸惑った。希が病室から出て行くと父は送っていかなくていいのかと言うので、仕方なく彼女に同行した。
「今日はありがとう」
「うん」
「でもびっくりしたよ」
「でしょ?」
希の笑った顔に一瞬どきっとした。
「今日はすっぴん?」
「薄くしてる」
「朝から?」
「ううん。会社にはいつものようにして行ったけど、病院に行くのにやっぱりと思って」
僕は彼女の意外な一面を見た気がした。
「お母さんどう?」
「うん……」
「元気出してね」
「うん」
「芳樹君が元気ないと、お母さんだって元気になれないよ」
「そうだね」
「私もだし」
「え?」
「それじゃ」
「うん」
「明日も来られなかったらメールちょうだい」
「うん」
僕は彼女の後ろ姿を病院の出口で見送った。
「いい子だな」
病室へ戻ると父がそう言った。
「彼女はそんなんじゃ」
「いまどきの子なのに、化粧も淡い感じだし」
「うん。病院に来るからって気を遣ったんだね」
「うんうん」
「でも違うんだよ」
「何が違うんだい?」
「彼女とはそういうんじゃないんだよ」
「結婚するとまでは決めてないということか?」
「そうだけど、そうじゃなくて」
「いくつなんだ?」
(いくつだっけ?)
「同い歳」
「そうか」
僕は父が大きな勘違いをしているのではないかと不安になった。
「さっき、前田さんが母さんと手を握ってる時な」
「うん」
「見てたのか?」
「うん」
その時の希は僕の知っていた希とは違っていた。輝いていた。
「お前、前田さんばかり見てたんだろ?」
父が笑った。
「え?」
「母さんを見てたかと聞いたんだよ」
「あ、ううん」
「母さんの口元、唇がかすかに動いた」
「そうなの?」
「うん」
そういう僅かなことも見逃さないのは、さすが夫婦だと思った。
「芳樹をお願いします」
「え?」
「母さん、そう言ってた」
「え?」
「母さんが彼女に、お前を宜しくお願いしますって言ってた」
(え)
「彼女は、はいって声にならない声で言ってたの聞こえたか?」
「……」
「やっぱり女は女のことがわかるんだな」
それから一人帰宅して部屋の電気を点けた時、美緒からのメールが入った。
「おうちに帰って来てる? お母さんの好きなかりんとう買って来ました。芳樹に渡すからお母さんのところに届けてください」
しかしその翌朝、母は他界した。
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