1.唯一の女警

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1.唯一の女警

 窓から見える外の景色はやけに灰色だった。厚い雲が空を覆い尽くしていて、今が朝なのか夜なのかも区別がつかない。ただ数時間前に夜食としてカップ麺を啜った記憶があるので、どちらかといえば朝なのだろう。  蜂須賀(はちすか)瑠海(るか)は、助手席のグローブボックスに入っていたガムを取り出すと一粒口に放り込んだ。強烈なミントの味が口内に広がり、思わず顔を(しか)める。 「俺にも一つもらえませんか」  隣でハンドルを握っていた新珠(あらたま)が、前を向いたまま瑠海に手を差し出した。瑠海は「ん」と返事をして、その手にガムを一粒乗せる。 「ありがとうございます」  新珠はどこか疲れた声で礼を述べると、ガムを口に放り込む。そしてその辛さに眉を寄せた。 「お前、事故ってくれるなよ」  瑠海は新珠の目の下にくっきりと刻まれた隈を見て、吐き捨てるように言った。 「そう思うなら蜂須賀さんが運転してくださいよぉ」 「嫌だよ、面倒臭い。今の今まで話の通じんオバサンを相手にして疲れてるんだよ、こっちは」 「蜂須賀さんが死体に触るのが嫌だって言って、さっさと出て行っちゃったからでしょう。俺と一緒にホトケさんを運んでくれたら良かったじゃないですか」 「誰が好き好んで、風呂に浸かりっぱでふやけた爺さんの死体を触るんだよ。大体、所轄の奴らが悪いんだ。あんなのどう見たって死んでるのに、どうして救急呼んでバイタルなんか取らせたんだよ。そのせいであのオバサン、自分の父親が死んだのはこっちの不手際だって思い込みやがったんだ」 「そりゃまあ、しょうがないですよ。身内が死んだらパニックにもなりますって」 「泣き喚くだけでもうるさいのに、金属音みてぇな声で叫び散らかしやがって。耳がイカれるかと思ったわ。そんなに心配だったなら、高齢の父親に一人暮らしさせるなっていうんだよ。死んだ途端にギャアギャア言いやがって」  車が赤信号で停車する。前方にコンビニの看板が見えて、瑠海は文句を言うのをやめた。 「新珠。あそこのコンビニ寄って」 「えっ、コンビニですか」  早く帰りたいのに、と言わんばかりの表情を浮かべた新珠を無視して、瑠海はもう一度「あそこのコンビニ」と看板を指差した。 「腹減った。ついでにお前の分も奢ってやるから」 「いらないですよ。よくあんな死体見た後に食欲が湧きますね。それに俺たちめっちゃ臭いと思いますよ」 「お前と一緒にするなって。出る前にシャワーくらい浴びたわ」 「違いますよ。死臭ですよ、死臭。あの家、死臭が充満してたじゃないですか。こんなのでコンビニ入ったら卒倒されますよ」 「いいだろ、別に。ちょっとくらい死臭くさくても。こっちは世のため人のために働いてるお巡りさんなんだから。むしろ店を巡回してくれてありがとうございますって、感謝されてもいいくらいだ」 「屁理屈だなあ」 「いいから寄れって」  信号が青になり、車が進んでいく。新珠は仕方なくウィンカーを出すと、店の駐車場へと左折した。  車が駐車枠の中にぴったりと収まると、瑠海は噛んでいたガムを小さな銀紙の中に吐き出して丸めた。コンビニのごみ箱にでも捨てようと、スーツのポケットに入れようとして——車のサイドポケットに放り込む。店先に置いてあったごみ箱はすでに満杯で、ごみが外にあふれ出していた。 「新珠。お前もガム吐き出しとけよ」 「あ、はい」 「警官が何か食ってると、それだけで文句言う奴がいるからな」 「そういう人たちにとっては、現場帰りにコンビニ寄るのもアウトでしょう」 「でもツーアウトよりはましだろ」  瑠海は乾いた笑い声で返事をして、自動ドアのボタンを押した。ガラスに一瞬映った自分の姿を見て、さらに引きつった笑みを浮かべる。新珠を笑えないくらい自分の顔にも青黒い隈が刻まれていた。  店内に入り、まっすぐにカップ麺のコーナーへ向かう。瑠海がしばらく商品を眺めていると、ふらりと近寄ってきた新珠が人差し指で瑠海の肩を叩く。  新珠の手にはキャラメルラテのドリンクカップが握られていた。瑠海は思わず眉を(ひそ)める。 「またそんな甘そうなやつ買って」 「好きなんだからしょうがないでしょう。それよりも蜂須賀さん。レジですよ、レジ。見てくださいよ」  新珠は声を潜めてそう言うと、レジの方を指差した。  小柄で若い女性店員のレジに、二人の青年が並んでいる。派手な色のパーカーにダボダボのダメージジーンズをはいた赤ら顔の男と、ゆるっとした服を着て、金色のチェーンネックレスを身につけた厳つい顔の男だ。  二人は酔っ払っているのか、店中に聞こえるような声量で女性店員に話しかけている。女性店員は困ったような笑顔を浮かべたまま固まっていて、目の前にいる不躾な客への対応を考えあぐねている様子だった。 「いっそ清々しいほどの(やから)ですね」 「まあ、この辺はヤクザも半グレも多いからな」  特段珍しくもない光景に、瑠海は視線をカップ麺の棚に戻す。 「パーラメントって言ってんじゃん」 「すみません。タバコは番号でお願いします」 「だからパーラメントだって」  酔っ払い相手にご苦労なことだと、瑠海は昨日食べたものと全く同じカップ麺を手に取る。レジが空くのをぼんやりと待っていると、男の下卑た笑い声が耳に入った。 「お姉さんさ、この仕事向いてないよ。俺らがもっといいバイト紹介してあげるからやめなって」 「そうそう。こんな普通に働くより、もっと楽に稼げるからさ」  新珠は持っていたキャラメルラテを瑠海に押しつけると、「俺、ちょっと注意してきます」と言ってレジに向かおうとする。瑠海は慌てて新珠の肩をつかんで引きずり戻した。 「面倒事起こすなって」 「俺ら警察官でしょう。こういう時に市民を守らなくてどうするんです」 「民事不介入って学校で習わなかったのかよ」  新珠は瑠海の手を振り払うと、むっとした表情を浮かべて、レジの前にたむろする非常識な客へと向かっていく。突然近寄ってきたスーツの男に、酔っ払いたちは店員に喋りかけるのをやめて、新珠の顔に目を遣った。 「何?」 「店員さんが困ってるだろ。君たちもいい加減家に帰りなよ。平日の朝から管巻いてる場合じゃないって」 「はあ? 何言ってんだ、こいつ。意味わかんねぇ。ていうか誰だよ」 「誰でもいいだろ。いいから出ていけよ」 「何でお前の言うこと聞かなきゃいけねぇんだよ。お前が出ていけよ」  まるで子供の喧嘩だと、瑠海は頭を抱える。それは店員も同じようで、新たに参入してきた徹夜明けの男を面倒事が増えたと言わんばかりの目で見ていた。 「ああ、もう、まどろっこしいな。警察だよ、警察。わかる?」  出ていけだの、いかないだの、平行線を辿る口論に嫌気が差したのか、新珠はジャケットの内側から警察手帳を取り出した。  途端に酔っ払いたちの(まと)う空気が変わる。自分たちにちょっかいをかけてくる変な男が、敵だと明確に判明した瞬間だった。 「んだよ、サツかよ」 「俺ら何か悪いことしました? フツーに店員さんに喋りかけてただけですけど」 「それが迷惑なんだって」 「俺らみたいなのには、コンビニ店員に喋りかける権利もないってことっすか」  酔っ払いと警察官による言い争いのせいで、店内にはレジが空くのを待つ客が一人、また一人と増えていく。  三人の口論を遠巻きに眺めるギャラリーと化していた瑠海は、その光景にほとほと嫌気が差してきた。空腹で苛立ちが抑えきれなくなってきたのである。  早く帰って食事がしたいという一心で、瑠海は渦中のレジに歩み寄った。 「すみませんね、急に話しかけて。我々も店を出るので、お兄さんたちも帰りましょうよ」  口角を少しだけ上げて、どうにか笑顔のような表情を作る。四人目の登場に店員の顔が引き()るのを瑠海は見た。 「んだよ、まだいるのかよ。ゴキブリかお前らは」 「何だと、この……!」 「新珠、よせって。こんなんでいちいちキレてたらキリないだろ」 「いや、でも……」  今にも酔っ払いに噛みつきそうな新珠を(なだ)めながら、瑠海は手に持っていたカップ麺とキャラメルラテをレジカウンターに置いた。 「支払いはカードの一括で。袋もお願いします」  しんとその場が静まり返る。次の瞬間、酔っ払いたちの怒鳴り声が瑠海の耳を(つんざ)いた。 「おい、テメェ、コラ! 何、のんきに買い物してんだよ。ふざけてんのか?」 「はっ? いや、我々はこれを買ったらすぐに出ていきますんで……」  隣にいた新珠までもが白い目でこちらを見ていることに気付き、瑠海は首を傾げた。 「この野郎、女みてぇなナリのくせにふざけやがって」  男の一人が苛立ちに任せてカウンターを叩く。隣の新珠が思わず吹き出したのを見て、瑠海は眉間に皺を寄せた。 「女みてぇじゃなくて、女だよ」  瑠海の言葉を聞いて、男は一瞬目を見開いたかと思うと、堪えきれないというように笑い出した。瑠海の眉間に更に深い皺が刻まれる。  一七〇センチを優に超える身長と、襟足を短く刈り上げたショートヘアのせいか、瑠海は性別を誤認されることが多い。  とはいえ、男だと間違えられることに忌避感はなかった。むしろ警察官という職業柄、そう誤解された方が仕事に有利まである。 「んだよ、女かよ」 「ブスは引っ込んでろって」  なぜなら女だと認識した途端、瑠海のことを見下し、侮る相手が一定数存在するからである。このような人間を瑠海は決して許さなかった。 「おい、新珠。お前、ちょっと殴られろ」 「はい?」  瑠海は笑っていた新珠の腕をむんずとつかむと、勢いに任せて引っ張った。突然のことに新珠はバランスを崩し、男たちに衝突しそうになる。自分たちに向かって倒れ込みそうになった新珠に驚き、男たちは反射的に新珠の体を突き飛ばした。 「(いて)っ!」  新珠の情けない悲鳴を聞いて、瑠海はわざとらしく眉を寄せた。 「おっと、こりゃ立派な公妨(こうぼう)ですよ」 「はあ? そっちがぶつかってきたんだろうが!」 「いやいや。いくら酔っ払っているとはいえ、警察官に手をあげるのは良くないよ。お兄さんたち、ちょっと一緒に来てくれるかな」  したり顔で近付いてきた瑠海のジャケットを男がつかむ。瑠海は自身の胸ぐらをつかむ手を見て、更にわざとらしく目を見開いた。 「警察官に手をあげると公妨だって言ったよな」  瑠海は男の手をつかんで、にやついた笑みを浮かべると、そのまま男の体を全力で投げ飛ばす。  まさか背負い投げされるとは夢にも思っていなかったのだろう。男は受け身を取る暇もないまま、つるつるとした固い床に背中から落下した。その鈍い衝撃音に新珠が顔を歪める。 「まずいですよ、蜂須賀さん。やりすぎですって」 「いいんだよ、警官が二人もやられてんだから。こんなチンピラ風情をちょっと投げ飛ばしたくらいで、外野からとやかく言われる筋合いはないね」 「もう令和ですよ。そんな昭和みたいなこと、言わないでください」 「お前と一緒でこっちは平成生まれだよ」  投げ飛ばした男には目もくれず店を出ていこうとする瑠海に、女性店員が慌てて駆け寄る。 「あの、すみません」 「はい?」  瑠海が振り返ると店員はレジ袋を差し出した。 「お客様、商品をお忘れですよ」  数分前よりもげっそりとした店員の顔には、早く帰りたいという文字が刻まれているようであった。瑠海は軽く会釈をすると、「ああ、どうも……」と掠れた声で返事をして店を後にするのだった。
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