1.唯一の女警

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「新珠ァ、小松(こまつ)係長知らないか?」 「係長ですか? さあ、知りませんけど……またロビーの自販機に、コーヒーでも買いに行ってるんじゃないですか」 「あのカフェイン増量のやつ? 係長も好きだよなぁ、あれ」 「それより先輩、もう上がるんですか?」 「もうって何だよ。定時はとっくに過ぎてるんだぞ。そりゃ帰るよ」  瀬戸内海に臨む中核市である南海道(みなみかいどう)市。  その中心街にそびえ立つ県警本部に瑠海はいた。刑事部捜査第一課巡査部長——それが今の瑠海の肩書きである。  瑠海が重たくなっていく(まぶた)に抗いながら書類とにらめっこしていると、新珠の素っ頓狂な叫び声が聞こえた。 「うわ、本当だ! どうしよう。俺、今日デートなんですけど」 「あのマッチングアプリで知り合ったていう子?」 「そうです、そうです!」 「おお、そりゃ急がんとな。まあ、俺は手伝ってやれないけど」 「そんなぁ、見捨てないでくださいよぉ」 「悪いな。可愛い娘が家で待ってるから。じゃ、お疲れ」 「あっ、先輩!」  新珠はがっくりと肩を落とすと、同僚たちには目もくれず文字を書き続けている瑠海に忍び寄る。瑠海は机から顔を上げることなく、背後に立つ新珠へ声をかけた。 「手伝わないから」 「まだ何も言ってないじゃないですかぁ」 「お前のせいでこっちは始末書まで書かされてるんだよ。お前もさっさと始末書出して、変死の報告書上げろよ。決裁に回せないだろうが」 「始末書は蜂須賀さんのせいじゃないですか! 蜂須賀さんが公妨だとかむちゃくちゃ言って、チンピラを投げ飛ばしたからですよ」 「解決したんだから放っておきゃいいのに、通報してくる馬鹿がいたせいだよ。元はと言えば、お前があの酔っ払いに注意するとか、何の得にもならないことを言い始めたのがいけないんだろ」 「どっちもいい加減にしろよ。新珠、お前は始末書だけ出して帰れ。報告書は明日でいいから」  瑠海と新珠が声のした方に振り向くと、二人の上司である係長の小松が呆れた顔で部屋の入口に立っている。小松は動物でも追い払うかのようにシッシッと手を振って、「デートでも何でも行ってこい」と言った。 「いいんですか?」 「その代わり明日の朝イチに提出しろよ」 「ありがとうございます! それじゃあ、お先に失礼します!」  荷物をまとめたかと思うと、新珠はいそいそと部屋を飛び出していった。それを呆れた目で見送った小松は瑠海のデスクに近寄り、卓上に微糖と書かれた缶コーヒーを置く。 「自販機で当たりが出たからやるよ」 「自分、ブラックしか飲まないですよ」 「嘘つけ。地域にいた頃は甘そうなやつばっか飲んでたじゃないか」  瑠海は眉を寄せてふてくされた表情を浮かべたが、しばらくして「あざっす」と小さな声で返事をした。 「お前ももう帰れよ。顔色が酷いぞ」 「元からこんな顔ですよ」 「聞かない奴だな。そんなに仕事ばっかりしてると俺みたいになるぞ」 「笑いづらい冗談はやめてください」  新珠の席に腰を下ろし、コーヒーを飲み始めた小松に瑠海は目を遣った。  土気色をした顔には皺と隈がはっきりと刻まれている。小松に初めて会ったのは、確か八年ほど前のことであった。昔は正義感のある好青年然とした風貌だったように思うが、今やその様子は見る影もない。 「けどまあ、係長みたいにとんとん拍子で昇進できるなら悪くないですね」  小松は飲んでいたコーヒーが何倍にも苦くなったかのように顔を歪めた。 「働きすぎておかしくなったのか、お前」 「ちょっとくらい頭のネジが飛んでないと、こんな仕事続けられませんよ」  瑠海の言葉に納得したように頷いた小松だったが、すぐに神妙な顔に戻り、コーヒーを机に置くと瑠海の席に体を向けた。 「それにしたってお前、後輩にはもう少し優しくしてやれよ。新珠が怯えてたぞ」 「怯える? 自分で言うのも何ですが、一課の中じゃ一番優しい先輩だと思うんですけどね。今朝だって奢ってやりましたし」 「そうだ、今朝の話だよ。余計な揉め事起こしやがって。お前、新珠に殴られろって言ったんだろ。普通の会社だったらパワハラで飛ばされてるぞ」 「普通の会社にいたら、後輩に殴られろなんて言うことありませんよ。あの場を丸く収めるには、それが一番ましな手だったんですって」 「何が丸く収めるだ。収まらなかったから、始末書書かされてるんだろうが」 「新珠がいけないんですよ。自分一人でどうにかできる力量もないくせに突っ込みやがって。一回殴られて痛い目に遭った方が、今後のためになりますよ」  瑠海がそう言い切ると、小松は土気色した顔を更にげっそりとさせた。そしてやけ酒を(あお)るようにコーヒーを飲み干し、缶を机に叩きつける。小松の目には憐れみが浮かんでいた。 「蜂須賀。お前、地域に戻るつもりはないのか」 「地域? 自分には交番のお巡りさんがお似合いだとおっしゃるんですか」 「そんな悪い風に捉えるなよ。こんなこと言うのも何だが、地域にいた頃の方がよっぽどましな顔してたぞ」 「極稀にですけど、善良な市民も相手にしてましたからね。ちょっとはにっこりして働くこともありましたよ」 「そういう話じゃなくてだな。お前は今、刑事部唯一の女警(じょけい)だろ。気を張って仕事しすぎてるんじゃないかって話だよ」  女警という言葉を聞いて、瑠海はわかりやすく顔を顰めた。  嫌な言葉だと常々思う。己につきまとう呪いのようなものだ。 「仕事でも何でも、一人で抱えようとすると(ろく)なことにならないぞ」 「だから家庭を持った方がいいとでも? それとも女警はお茶汲みでもしてろっておっしゃるんですか?」 「そんな昭和親父みたいなこと言ってないだろ」 「そんな古臭いことをこっちはずっと言われてきたんですよ。同期の中で出世のことを考えてる女警なんて、もう自分くらいです」  瑠海は吐き捨てるようにそう言うと、書き上がった書類を小松に突きつける。 「これ、確認お願いします」  机に散らばっていた荷物を手早くまとめて、瑠海は逃げ出すようにその場を後にした。  十八で警察学校に入校して以来、ずっと一人でやってきたのだ。ここに来て誰かに頼るつもりなどさらさらない。  駐車場に駐めていた車に乗り込み、瑠海は缶コーヒーのプルタブを引いた。  一口飲んでみるが、ほんの少し甘みを感じるだけでやはり苦い。相変わらず好きにはなれない味だった。
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