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2.野垣の打算
飛び込みで入ったバーは、思いのほか落ち着いた場所だった。
事前に下調べはしており、ゲイバーでもあることも承知の上での入店だった。
店内のカウンターの中には、店主らしきママがカウンターに座る客を相手に笑顔を向けている。
野垣英史(のがき・えいし)は、ママへ了承をとりつけて、カウンター席を確保した。
久しぶりに同じ趣向の人間と話がしたかった。それだけ、自分は日常に疲れていたのかもしれない。
左手の薬指にはめていた指輪を外して、野垣はポケットへと仕舞い込んだ。指輪はただ擬装のために普段から付けているものだ。四十近いこの歳になると、周囲からは望まない縁談を持ちかけられたりするもので、これを付けている間は誰もおせっかいを言い出したりはしない。
今日は素の自分でいたいという思いから、野垣は手から指輪を外した。
ビールを前にして、初めて入った店のママと会話をしてみたかったが、生憎ママは忙しそうだった。
野垣は店内を見渡した。ふと、こちらをチラリとみていた男性に意識がいく。席三つ分離れた席に座っていた。
随分と細身で、クールな印象をもった男性だった。よくよく見ればとても整った顔立ちをしている。
普段は軽はずみに他の客へと声をかけたりはしなかったが、野垣はその男に興味を惹かれてつい話しかけていた。
「君もひとりで? よかったら、話し相手になってもらえないかな?」
「いえ…」
相手は、警戒心を露わにしている。
「すみません、もう帰るとこだったんです」
男は名前すら聞く間もないままに、足早にこの店を出て行ってしまった。
「あらぁ、振られちゃったわねぇ」
他の客の応対をしていたはずのママは一部始終を見ていたのか、ぽつんと取り残された野垣へと話しかけてきた。
「でも、ダメよぉ。そんな指輪なんか嵌めたまま来ても、誰も相手なんてしてくれないわよ」
先ほど指輪を外した現場を見られてしまっていたのだと気がついた野垣は、なるほど…と困った顔をした。
「それに、あの子は特別よ。私がしっかり吟味した相手しか、あの子も相手にしないわよ」
ママはまるで親代わりでもあるかのような発言をして、とにかく諦めてちょうだいと野垣へと言って聞かせようとした。
「いや…、ちょっと待って下さい。私は独身ですから! バツもついていませんよ」
野垣は変な誤解を招いてしまった経緯をママへと話して聞かせた。
と言っても、独身を証明するようなものなどそうそう持って出歩くものではない。重宝していた指輪だったが、思わぬところで痛い目をみてしまったようだ。
「あら、そうなの?」
やっぱりイマイチ信用が足らないらしい。野垣は自分の名刺を差し出した。ついでに身分証を取り出して、ママへと提示する。そもそもここを出入り禁止になってしまっても敵わない。
(それに…)
野垣には打算めいた思いつきがあった。
このママから信頼を得られれば、もしかしたらあの男性とまた会える機会があるかもしれない。
先ほど帰ってしまった男は、野垣が話し掛けた途端に警戒心をあらわにしていた。こんな店に一人で来て、慣れた様子ではあったものの相当ガードは堅いらしい。物言いもハッキリとしていて、芯の強さが窺える。
野垣の誘いさえあっさりすり抜けてしまって、正直、さっきは惜しいとさえ思えた。
それだけ、あの男性が魅力的に見えたのだ。
野垣は、つい先ほど帰っていった彼のことを思い出して、クスリと笑ってしまう。
久しぶりに、冷え切っていた野垣の心が動いた気がした。
同時に野垣は、社内でトラブルを抱えていた。当社を担当していた男が、うちの工場長を激怒させてしまったらしい。礼儀にうるさい年長者だったから、凡そそういったトラブルだろうと野垣も大体の予想はついた。
すぐさま先方からは、上司と一緒に謝罪をしたい意向を示してきた。このままではお互い不利益を生じかねないと判断して了承はしたが、偶然にも、取引先の若者が連れてきた上司というのが、まさかのバーで会った彼であった。
野垣は舞い上がりそうになりながらも、相手は昨日のことには触れてほしくない様子なのを察して、その場は終わりとなった。
彼の名前が、宮崎吏比斗(みやざき・りひと)ということがわかっただけでも、野垣にとっては大収穫といえた。
吏比斗は後から入ってきた工場長に対しても丁寧に詫びを入れていた。初め、営業部長だと聞いたときには、とても営業向きなタイプだとは思えなかった。
しかし、その真摯なまでの話ぶりですぐに工場長の懐にさえ入りこんでしまい、野垣はなるほどと納得してしまった。連れていた新人とは違って、とても上品で礼儀を弁えていた。
手土産にと持ってきた和菓子の詰め合わせを事務員へと渡す。
「工場長に渡してくれ」
それだけ言って、野垣は自分のデスクへと戻った。パソコンを眺めながらも、先ほどの吏比斗の様子を思い起こす。
初めは堅い表情をしていたが、和解できた感触を感じた彼は、帰りがけにはとてもキレイな笑顔を覗かせていた。あれは多分、無意識だろう。
まだ彼は、野垣のことを既婚者だと勘違いしているはずだ。そんな男へとあの彼が媚びるような真似をするはずかない。
それだけは確信のようにして、野垣の心へと残った。
それから毎日のように、野垣はあのバーへと足を向けたが、あの日以来、吏比斗に会えることは一度も叶わなかった。バーで飲んで帰る、そんな毎日を送っていると、ママから憐れみに似た表情を向けられる。
野垣は苦笑いを返しながらもビールを注文していた。あれ以来、指輪は一度も付けることはなかった。
「そんなにあの子のこと、気に入ったの?」
ママからは、呆れたような声でそう言われた。
「ハハ。どうかな」
曖昧に野垣が返すと、ママはいつものようにため息を吐いてみせる。
そんなママへと、野垣は出されたグラスを傾けながら呟いた。
「別に、ただ彼とゆっくり話がしてみたいだけだよ」
指輪を外して以来、私生活では勿論のこと、バーでさえも“お誘い”がかかるようになっていた。けれど野垣はそれらのお誘いには一切応じることはなく、はたまた何のためにバーに来ているのかも怪しい雰囲気のまま酒を煽っていた。
話し相手はママくらいだった。
「あの子は今、レンアイ関係は疲れてるみたい。しばらく休みたいそうよ。またこっちへ出てくるようになったら、あなたにも連絡してあげるから…」
こう毎日、来もしない相手をお目当てに通わせるのもさすがに憐れに思えて、ママは少しだけ野垣へと協力することにしたのだった。
『…っていう感じだから、話くらいならしてあげたらどう? 指輪の件があったからアタシも警戒してたけど、ずっと独り身みたいよ。こないだなんて名刺のうえに免許証までみせてきてねぇ』
わざわざ吏比斗に電話をくれたママは、事の一部始終を話して聞かせてくれた。
「わかりました。…週末…金曜日の八時頃には伺います」
そう返事をして通話を終えた吏比斗は、休憩室から窓の外を眺めた。
あの男が取引先の相手だとわかったものの、吏比斗とはそれほど仕事の接点はなかった。このままフェードアウトするだろうと考えていた矢先の話だった。相手が吏比斗のためにそこまでしているならば、それが取引先の相手ならば尚更、そうそう無碍にはできそうもない。
吏比斗は仕事の一環とでも考えて、あとは日頃お世話になっているママの顔を立てるべく週末はバーへと出向くことにする。
ただ話をするだけだと自身へと言い聞かせる。
けれどそんな時、また若手社員の中村が報告がてら余計な情報を持ってやってきたのだった。
「宮崎部長〜。先日ご一緒していただいた先のあの部長さん、どうも別れたらしいっすよ!」
ママからの情報とは全く違う内容ではあったが、事情はだいたい想像がついた。
「野垣部長の指輪がなくなったーって、社内でも話題になってるみたいで〜。どうも長く付き合ってた彼女と別れたんじゃないかって」
どこまでが本当かもわからない噂話はまず信じない吏比斗だったが、あの彼の指から指輪がなくなったという話には興味を惹かれた。
「…お前の情報網も、何だかんだで凄いな…」
あまり良い意味ではなかったが、中村は褒められたと勘違いしたのか、
「いえ〜それほどでも〜」
と、照れた仕草を吏比斗へとしてみせたのだった。
金曜日の午後八時頃。
吏比斗は約束通りに、バーへと出向いていた。
先に到着していた吏比斗は、遅れて入ってきた彼の顔を確認すると、立ち上がってまず自分から声をかけた。
「こんばんは、野垣さん。先日は大変お世話になりました」
吏比斗は丁寧にぺこりと頭を下げる。
「いえ! とんでもない。こうして宮崎さんとまたお会いできて私も嬉しいです」
そう言って、吏比斗の近くへと歩み寄った。
「今日は、ご一緒しても構いませんか?」
「あ、はい。どうぞ」
吏比斗は隣の席へと置いていた鞄を退かして、こちらへと促した。
酒を飲みながらふたりで話をしてみると、野垣は予想以上に話術に長けた人間だということがわかり、吏比斗は驚いた。管理部長だと聞いていたが、営業マン顔負けなのではないかとさえ感じてしまう。話の内容は仕事の事から始まって、プライベートな内容にまで発展していった。
趣味はランニングで、毎朝走り込んでいるらしい。確かに体つきはスマートながらも引き締まった良い身体つきをしていた。加えて高身長なうえ、男性から見ても整った顔立ちをしている。若い頃はさぞかし遊んでいたのではないだろうか。
吏比斗もまだ若き頃は、性に奔放な時期もあった。だから、他人の過去をあれこれと詮索するつもりはないが、吏比斗から見ても野垣のこういった男性への対応には、どこか手慣れた節が窺えた。
知らない間に、吏比斗はカクテルを二杯飲み干していた。それだけ、思いのほか楽しい時間だった。
こういう相手は、どちらかといえば友人であるならば一生の付き合いになりそうだが、ここはゲイバーであり、相手は男である。
吏比斗は気づいてはいけない思考へと行き着いてしまった。
(やばい…気を許しすぎたな)
会話をしているうちに、吏比斗は知らず綻んだ表情を自覚した。
自分はこういう時、相手を誘惑するような顔をしていると、過去に付き合ってきた男性に言われたことがあった。勿論、そんなつもりはなかったし、実際そんなことはないだろうと思う。しかし、気もない相手に勘違いさせるのも良いものではなかった。
だから、笑いすぎてはいけないと心掛けつつも、久しぶりに会話が弾んで、どこか浮ついていたようだった。
「宮崎さん、二件目に行きませんか?」
野垣は雰囲気を感じ取って、思い切って宮崎へとお誘いをかけてみた。こんなふうに自分と会話しながら楽しそうに笑ってくれる存在を、野垣も手放したくなくなってしまう。
「あ…はい、…いいですよ」
どこか迷いをみせながらも吏比斗から返事をもらって、交渉成立とばかりに野垣は席を立ち上がった。
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