6.トラウマ

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6.トラウマ

 翌週の平日の夜。  野垣はひとりでバーを訪れていた。 「あら? おひとり?」  ママはもう野垣と吏比斗が付き合っていることを知っている。だから、野垣がバーへとひとりで出向いてきたことに、疑問を抱かずにはいられずにそう声をかけた。 「えぇ。ちょっと、あなたに聞きたいことがあって」  ここまで言えば、勘のいいママにはその聞きたいことが吏比斗に関係することだと分かるだろう。 「そうねぇ。あの子の得になるようなことなら、話してあげてもいいわよ」  そんな吏比斗贔屓なセリフにひとつ頷きながら、野垣はカウンター席へと座った。 「吏比斗の、過去の関係について聞きたいんだ」  ストレートに言い切った野垣に、ママも当然のことながら驚いた顔をした。 「なぁに? 野垣さんは、過去の相手まで詮索しちゃうタイプなわけぇ?」  ちょっと呆れるように話したものの、目の前の野垣がそういうタイプには全くみえなくて、ママは眉を顰めた。 「…何があったの?」 「吏比斗はまだ、何も話さないんだが…」  野垣は、吏比斗が夜中にひどくうなされていることがあることを伝えた。夜中、うわ事のように『嫌だ、やめて』と何度も繰り返したりする。それは、誰かに怯えているように見てとれた。  何かトラウマがありそうだが、どうにかそれを緩和してやりたいのだとママに伝えた。  これがもし幼少期のものならば、然るべき心理的なケアを受けるように勧めるし、もしも過去付き合っていた人間から受けたものならば、決して許し難くも感じてしまう。 「あなただから、相談できることだ」  最後にそうつけ加えると、ママはしばらく考えている様子だった。やがて、心当たりを思い出したのか、「あ、そういえば…」と、口を開いた。 「あの子がここへ来る前、別のバーを出入りしてたことがあったそうよ。厄介な奴もいるから、もうあそこへは二度と行かないとか言ってたから…」  二度と行かないともなれば、相当嫌な目に遭ったのだろうと想像がついた。  相手を特定するまではいかないかもしれないが、事情がある程度わかったことで吏比斗の様子にも納得できた。今はとりあえず、それだけでもいい。 「ありがとう、ママ」  野垣はまだ飲みかけのカクテルをそのままに、店を出ようと立ち上がる。 「今度は、吏比斗君も連れてきてね」  背中へと投げかけられた言葉に野垣は振り返ると、また一度だけ頷いて店を出ていった。  とはいっても、本人が口を開かないことには野垣から踏み切れることはなにもなかった。  ただ、彼が感じている不安を取り除くために、吏比斗には気晴らしをさせたり、過去に囚われないよう今を楽しませたいと考えた。  合鍵は既に渡しており、今夜も吏比斗は野垣のマンションへと立ち寄っているはずだ。明日は休みだから、吏比斗を連れ出してどこかへ出かけるのも悪くないだろう。  そんなことを考えながら自宅へ戻ると、案の定、彼は先に家に着いていた。  吏比斗が家に居るとわかると、野垣はいつもは感じない高揚感を抱えてリビングへと続く廊下を歩いていく。 「あ、おかえりなさい。お邪魔しています」  ソファーに座っていた吏比斗は、一度立ち上がってそう野垣へと言った。  変によそよそしい吏比斗を抱きしめて、野垣は「ただいま」とその耳元へと囁く。  吏比斗はあれから幾度かうなされることはあったが、普段はいつもと変わりなかった。  外面には出さない吏比斗だが、心の奥には大きなトラウマが隠れていると思うと、野垣はどうも居ても立っても居られない気持ちになる。 「吏比斗。来月の三連休に、旅行にでも行かないか?」  そう提案すると、吏比斗の表情がぱっと明るくなった。吏比斗が旅行好きだとわかり、彼の様子にもほっと安堵する。それでもはしゃぐような素振りをみせないのが、吏比斗らしいともいえた。 「どこを計画してるんですか?」  そう落ち着いて尋ねながらも、心はウズウズと浮ついている雰囲気が野垣にも伝わってくる。 「いや、どこにしようか? 吏比斗はどこがいい?」  そんな彼を楽しみつつ、野垣はiPadを取り出して宿の検索を始めようとした。  と、その時、テーブルに置いたままだった吏比斗のスマホが鳴動した。 「…あ、飯嶋からだ」 (飯嶋?)  初めて聞く名前だった。  吏比斗はその飯嶋からのメールを確認すると、思わずふっと口元を緩ませていた。  メールには、野垣の勤める細かな企業情報と、野垣本人の詳細なデータが記されている。交際範囲の広い飯嶋ならではのルートからの情報だろうと知れた。文の最後にはオッケーと笑顔の絵文字まで付いていて、『大丈夫だから頑張れ』と応援のメッセージが添えられている。  吏比斗は絵文字を見て、飯嶋の愛嬌のあるあの笑顔を思い出し、クスリと笑った。 「その飯嶋さんは、何だって?」  吏比斗が笑顔をみせたそのメールの相手が気になって野垣は声をかけるが、吏比斗は「大したことじゃないよ」と言葉を濁してスマホをしまい込んでしまった。内容まではあまり知られたくない様子が見てとれる。  野垣は気にはなったが、吏比斗が話す気がないものを無理に聞き出す気も起きなかった。  ただ、その“飯嶋”という存在がどれほど吏比斗に影響を与えているのか。それだけが気がかりで、野垣はつい彼の様子を探ってしまう。  吏比斗はそんな野垣の視線にすら気づくことなく、楽しそうな表情を浮かべながらiPadへと食い入っていた。今は、旅行の計画に気がいっている様子だった。  野垣は諦めるようにしてため息をこぼす。  代わりに、彼の側へともう少しだけ近づくと、寄り添うようにして二人で宿の検索を始めた。
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