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1.既婚者の男
人というものはそれぞれに、セクシャルな悩みを抱えているものだ。
誰を好きになろうとも、それが例え同性であろうと何ら不思議なことではない。
宮崎吏比斗(みやざき・りひと)は自身の持つ性的な嗜好には自信を持っていた。
吏比斗はゲイである。普通といわれる基準と違うからといって、何も後ろめたさなどは感じてはいない。
ただ、世間的には認められていない面も多々あることを配慮して、あえて自分からカミングアウトするような真似だけはしないようにしていた。
しかし、世の中というのは同類を引き寄せるものなのか、吏比斗の周りには日常的にそういった輩が集まっていたりした。
そのひとりが、同じ会社の同僚である飯嶋友(いいじま・ゆう)だった。
飯嶋は、他部署の人間であるにもかかわらず、この休憩室にもよく出入りしていた。その休憩の最中の会話だった。
ちょっと呆れたような物言いで、飯嶋は隣の吏比斗へと問いかけていた。
「ナニお前、もう別れちゃったの?」
「あー…、あれな…。性格がどうも合いそうになくて」
飯嶋とは、同僚ながらもそんな事情を話す仲にまでなっていた。ちなみに彼もゲイである。
「ふぅん…。ま、合わないならしょうがないよな」
そう言い捨てるようにして、飲みきった缶コーヒーをゴミ箱へと放り込んだ。はい休憩終わりと言い残して部屋を出ていく。
飯嶋は以前、吏比斗と同じ営業部所属だった。
もう次の営業部長はこの飯嶋だろうと誰もが予想していた最中、彼は全く畑違いの経理部長へと転属となった。
それが本人の意志によるのだと当人からも聞かされたが、同じ営業職の身から言えば正直、勿体無いとさえ思えるほどだった。
しばらくして営業部長には吏比斗が選任されることになった。結局こうして二人は、会議の後には部長同士、休憩室で雑談をするようにもなっていたのだった。
吏比斗も残りの缶コーヒーを飲み尽くすと、既に去った飯嶋へと続くようにしてゴミ箱へと缶を放り込んでいった。
以前に通っていたゲイバーで、吏比斗は質の悪い男に騙されて酷い目に遭った経験があった。
それ以来、そういった場所へも自ずと足が遠のいていた。
けれど、飯嶋から良い所だと紹介してもらったバーのママはとても気さくな人で、吏比斗のようなちょっと無口なタイプにも臆さず愛嬌よく話をしてくれる。過去の苦い経験で凝り固まっていた吏比斗も、そこでは次第に付き合いの幅を広められていた。
ママからの善意で紹介される男は見目も性格もそれなりに良かったが、さすがに相性まではピッタリとはいかないものだった。
会社からの帰りがけに、吏比斗は久しぶりにママのいるゲイバーへと立ち寄ることにした。
「あら、いらっしゃい。吏比斗君」
バーのドアを開けて入ると、いつものようにママが吏比斗へと声をかけてくれた。
「こんばんは」
吏比斗もママの笑顔につられるようにして微笑む。ママの表情はここでいつも、満面の笑みへと変わるのだった。
「久しぶりねぇ。来てくれて嬉しいわ」
カウンターで酒を飲みつつ、ママとこうして近況を語り合うのも習慣となっていた。
「この前の子とは別れたんだって? ちゃんとした感じの子だったけど、タイプが違っちゃったのかしらねぇ」
情報はもう相手側からも回っていたようだ。
他に誰が合うかしらとママは考えを巡らせるように天井を見上げた。
「あ、大丈夫ですよ。しばらくは休憩も入れたいし…」
長らく特定の相手を持たなかったせいか、吏比斗は“お付き合い”という形式にほとほと疲れが溜まっていた。
ただ今日は、ママの話を聞きながら気晴らしがしたいだけでここへ寄ったのだ。
「あらそうなの? じゃ、また合いそうな子がいたら報告するわね!」
ママは語尾にウインクすらよこす。それがまた、彼がすると格好良くサマになっていた。
「いつもありがとうございます」
丁寧に言葉を返すのは、吏比斗の癖のようなものだった。
一時間ほどママを相手にゆっくりと飲んでいると、店に一見の客がやってきた。
「ここ、いいかな?」
吏比斗から三つほど席を挟んだ先に、その男は指を指しながらカウンター内のママへと声を掛けた。
「どうぞー。あら、初めての方よね? ウチの店、こんな感じだけど、お兄さんは大丈夫かしら?」
一見の客には、ママはまず先に確認をとる。ここがゲイバーでもあるけれど、あなたはそれでも大丈夫?という意味だ。
「あぁ、じゃあ…先にビールをもらえるかな」
頷きながら、そうママに笑って返していた。了承しているようだ。
席三つ分離れた場所に座る男は、どこかの商社マンといった装いだった。ママの身長とほぼ同じくらいだったから、この男も相当に背が高いほうかもしれない。
横目で男のことを暇ついでに観察していた吏比斗は、不意にとった男の動作にぎょっとしてしまった。
男は、左手の薬指に嵌められた指輪を外して、内ポケットへと収めたのだった。
(うわ、既婚者か?)
すると、ここへは遊びで入ったということだろうか。
吏比斗は近くにきたママへと視線を送ると、ママは黙って首を振って返した。
(やめておきなさい、とでも言いたそうだな)
当然、そんなつもりはなかった。
けれど、男は離れた席に座る吏比斗を見つけると、声を掛けてくる。
「君もひとりで? よかったら話し相手になってもらえないかな?」
(既婚者の話し相手…)
吏比斗は一瞬、身構えてしまっていた。
「あ、いや…」
変に気に入られでもしたら、厄介なことになりそうだと感じて、吏比斗は立ち上がる。
「すみません、もう帰るとこだったんです」
ママへと軽く挨拶をしつつ、吏比斗は足早に店を出て行ったのだった。
既婚者の男は、『それは残念だな』と呟くと、やけにあっさりと『またの機会に』と言い、最後には笑顔までよこした。
去るもの追わずといったタイプなのだろうか。こうもあっさりと誘いを交わせたことにも、吏比斗は違和感を覚えた。
そんな昨夜の出来事を思い出しつつ、山積みになった書類を片付けていた時のことだ。
「宮崎部長〜!」
困った様子で営業の新人社員が吏比斗のデスクへと泣きついてきた。
「僕〜、やっちゃいましたぁ…」
(………あぁ、またか)
この新人の中村は、取引先を幾度か怒らせたことがある。本人に自覚はないのか、そのちょっと間の抜けた物言いが、時折、先方への怒りの火種となったりしているようだ。
「すぐアポをとれ。私も同行してやるから」
「部長〜、ありがとうございます〜ぅ!」
中村の語尾に、吏比斗はドッと何かが肩へとのし掛かったような気がした。
アポイントは早々に取ることができた。
その日の夕方、吏比斗は新人の中村を連れて詫びを入れるべくしてその会社を尋ねた。手には高級和菓子屋の菓子折りを持参している。
中村が怒らせた会社は、業界内では一二を争うといわれるほどの企業だった。どうしてそこに新人が行っているのか、まずはそこから見直さなければならないだろう。吏比斗はこの中村の指導に当たっている営業の顔を思い浮かべる。
しかし今は、この取引先への謝罪が最優先だ。
応接ルームで5分ほど待たされて、その会社の管理部長にあたる人間が顔をみせた。
「わざわざ出向いていただいて、かえって申し訳なかったですね」
穏やかな声音が先に聞こえて、吏比斗は拍子抜かれる。
「いえ! こちらが至らない点が多いばかり…で…」
入ってきた部長にあたる男と目を合わせた途端、吏比斗は絶句してしまった。
目の前に立つ男。それは昨日、バーで出会ったあの“既婚者”の男性だった。
驚いて言葉をなくした吏比斗へと、
「あぁ、昨日の…」
相手も気がついて、昨日と同じ笑顔をよこした。
「偶然ですねぇ。こんなふうに再会するなんて」
男は隣でポカンと口をあけている中村に気づいていないのか、昨日のことを話題に出してくる。
「はい…いえ…」
吏比斗の返事が芳しくないことを察すると、男はそれ以上、昨日の話題には触れようとしなかった。すぐさま本題へと話を切り替えた。
吏比斗はとりあえずホッと胸を撫で下ろす。
バーの話は大っぴらに話せることではない。
不倫はともかくとして、公私は弁えているらしい男にひとまず安堵しつつ、吏比斗は本日の謝罪へと気を取り直したのだった。
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