花が降る最後の夜に、もう会えなくなる君と

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 え、何が。そう聞こうとしたときにはもう遅かった。  香苗は既に、一歩を踏み出している。ゆっくりと歩を進め、幸雄が呆然と立ち止まっている間、彼女は緩やかに距離をつめた。  顔に出すべき表情さえも考えあぐねていた彼へ、香苗の白い指が伸ばされる。緊張のあまり、裏返った声が口をついて出た。 「ま、待って待って」  心臓が強く脈打つ。視力という大半の人間にとって普遍的な能力が無意味になろうとしている瞬間に、もっとも強く生を実感した。香苗が近づいてくる。  頬が両手で挟まれ、思いのほか冷えた温度が神経をめぐった。香苗の顔はいつになく幸雄の側にあり、幸雄の視線は今までより遥かに香苗にそそがれていた。  2人の顔の距離は、緩やかに近づいていく。  時計の長針と短針が少しずつ、でも確実にその隙間を埋めていくように。やがて重なり合い、そして別れる2本の針のように。 「告白されたときにしそびれてたから、今のうちに。私を見れるのは、これで最後だよ」  香苗の甘い声は、少しも滲んでなどいない。秒針が滑るように淡々とした言葉は。頬を滑る冷たい指先は。鼻先をくすぐる吐息さえ。  初めてではない。それなのに、どうしてこんなにも。  彼女の双眸の深さに吸い込まれそうになったとき──時計の長針と短針は、ぴたりと重なった。  夜の零時が訪れる。同時に、最初の花が降りはじめた。
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