花が降る最後の夜に、もう会えなくなる君と

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 少女の顔が少年から離れたとき、ようやく彼は呼吸をすることを思い出した。60秒間の分を必死に吸っては吐き、吸っては吐いた。  息を整えてから顔を上げ、香苗を見る。背後で、降りしきる桜の花びらが暗闇に沈んでいった。彼女の姿も漆黒の中に溶けていく。  街灯から落ちた光の粒が、薄く平たい形状に近づいていき、完全な花弁となった瞬間に発光をやめてしまう。美しい自らの姿を照らし出すのが怖いかのように、降り注ぐ光は本質を変えた途端、闇に吸い込まれた。  足元にも膝下にも手のひらにも、花びらが落ちてくる。星の群れが見えない花吹雪に変わり、時計の針は動き出し、息を整えた幸雄はようやく顔を上げる。  そして、穏やかな流星群の中にいる香苗をぼうっと眺めた。  姿が完全に見えなくなるまで、彼女は微笑んでいた。もっとも彼女らしい角度で口角を上げて頬を赤らめ、笑顔を浮かべている。  街灯の光が小さくなっていき、別れの季節を連想させる桜の花弁が次々と闇に呑まれていく。消えゆく光源に照らされた香苗は、最後まで美しかった。 「ねえ、幸雄」  真の暗闇の中、耳元でささやかれる。発声のための吐息が熱い。耳の内側を焼く熱さに、幸雄の顔も熱くなってきた。汗をかいている理由が分からない。  香苗の言った言葉は、たいして珍しくもない定型句だった。たったひとつの動詞が、ぼそりと告げられる。  聞いた瞬間に、幸雄の心拍数は一気に跳ね上がる。闇にぼんやりと浮かぶんじゃないかというくらい頬が上気して、顔が赤くなったのを自覚した。  浮かれすぎだと分かっていた。それでも構わない。最後なんだから。応える返事が予想外に大きくなってしまったのも、責められるわけがない。 「僕もだ!」  叫びながら彼女に抱きついた。夏の抜け殻を入れたビニール袋を後ろに放り捨てて、香苗だけを意識に焼きつける。  抱きしめられた瞬間に少し固まって、それからすぐに笑い出した彼女の存在が、幸雄の鼓動をとんでもなく揺さぶっていた。  最後までどころではない。最後のあとも、そのまた先も、彼女はずっと綺麗だ。見えなくなったとしても、もう会えなくなったとしても。彼女は永遠に、僕に恋をさせるだろう。  甘い予感に酔いしれながら、街灯並木の下で再びキスをした。           (完)
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