ハルコホリック

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「もし生きてたら、金も名誉も手に入っただろうに。勿体ない」  代わりに別の本音を呟くと、春湖はまた困ったように苦笑した。さっきの喧嘩では言葉の強い彼女だったが、普段はこんな感じだ。目的なく誰かを否定しない。 「佐伯君の絵をもう見られないのは悲しいわ」  今日会ってから初めて、春湖が寂しそうな瞳を見せた。  面食いの佐伯は美女の絵ばかりを描き、そのどれもが高い評価を得た。  正直、モデルと実際の絵はあまり似ていない。佐伯が勝手に架空の要素を追加して描くせいだ。だから、どの絵の女もどことなく似てしまっている。  しかし、その要素こそが佐伯の個性で、唯一無二のものだった。描いた本人からは想像も出来ない繊細で柔らかな筆致。女の達観した表情。作品全体に漂う、しんと静かな空気。  一生掛かったとしても、俺にはあんなに人目を引く絵は描けないだろう。  そう思うと未だに悔しくて、無性に煙草を吸いたくなった。コートのポケットから煙草の箱を取り出し、「ごめん。いい?」と春湖に許可を得てから一本を口に咥える。火を付け煙を深く吸い込んで、胸中に広がる焦燥感をなかったことにした。 「絵が上手くて女にモテて、将来の成功も約束されていて。あんなに恵まれた状況なのに命を絶つって、あいつ、本当は自分の絵に行き詰まってたんだろうか」  俺の疑問に、春湖は難しい顔をして首を傾げた。佐伯は親しい人間にも本心を見せなかったから、遺書もない以上、死の理由には辿り着けそうにない。  俺は傍らに置いた煙草の箱をぼんやりと眺めた。吸う煙草の銘柄すら凡庸な自分に、一体あいつの何が分かるというのだろう。
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