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 それから、ぼくは、キッチンから漂うコーヒーの香りで目をさました。  いつもなら、コーヒーと一緒にトーストの香ばしい香りが漂ってくる。でも、ぼくの鼻がおかしいのだろうか、今日は、コーヒーの香りしかしてこない。  ぼくは、朝タオルケットからぬ受け出すのが大っ嫌いだ。タオルケットも、タオルケットでなかなか僕を離してくれない。毎朝、こんな悲しい思いをするんなら、夜寝なければよかったと思うぐらい、本当に辛い。  でも、僕は、今度こそおとうさんにお礼を言うために、タオルケットとは訣別した。タオルケットがもう少し僕と一緒にぬくぬくしていたいって気持ちは、十分に伝わっていたけれど、ぼくはおとうさんにとにかく、言ってやらなきゃいけないんだ。そう、「ありがとう!」ってね。  ぼくの寝ている部屋の扉を開ければ、キッチンとつながっているダイニングだ。お父さんは、きっと朝のニュースを観ながら、コーヒーをすすっているはずだ。  ぼくは、大きく、ほんのりコーヒーの香りのする空気を胸いっぱいに吸い込んで、思いっきりドアを開けた。  え?テーブルの上には、黒猫のちろが、やけにお行儀良く座っているのが見えたけれど、椅子には誰も座っていない。ちろの三角の耳がいつもより更にピンとしているのが背中から見える。その向こうに、おかあさんの後ろ姿が見える。  おとうさん。もう、お仕事に行っちゃったんだろうか?  テーブルの上のちろが、あんまりにもビシッと、「気を付け」でもしているように、三角の耳もこれ以上ないぐらいに真っ直ぐに伸ばして座っているからら。ダイニングもキッチンもものすごくぴんと張り詰めている感じで、ぼくはお母さんになんて声をかけたらいいのか、全然わからなくなってしまった。  おかあさんの背中は、なんだかいつもより、薄ぼんやりしていて、本当にキッチンの前に立っているとは思えない、なんだか今にもすうっと消えてしまいそうに見えた。ぼくは、あわてて、おかあさんの足元に駆け寄ると、右手でお母さんのエプロンの裾を掴んだ。  そうしないと、お母さんは、今にも消えて、どこかへ行ってしまいそうだったから。  その瞬間、ぼとっという音が床から響いてきた。  そして、その後は、音を立てずに黒い影が足元を横切ろうとした。  僕はしゃがんで、その黒い影を抱きすくめて言った。  「ちろ、おはよう。おとうさんは、もうお仕事に行っちゃったの?」  ちろは、三角の耳をちょっと左右に動かしただけで、横を向いたまんまだ。  それから、本当にそこに立っているのかどうなのかよくわからないと思っていた見慣れた女の人は、いつものお母さんの声で 「ごめんね。食パン、買ってくるの、忘れちゃった。」 と、言いながら、ゆっくり振り返って、ぼくの顔を見た。  それから、おかあさんは、テーブルの椅子に音もなく座った。  おかあさんの目の前には、ゆっくりと湯気の立ち昇るマグカップのコーヒー。おかあさんは、顎の下に両手を置いている。顔の半分は、その細いけれど、少し節の目立つ十本の指に隠れていて、口元は、泣いているのか、怒っているのかわからなかった。    僕は、おさあさんに話しかけたら、今度こどお母さんが消えてしまいそうに感じて、すごく怖くなってしまった。  だから、ぼくは 「パン、なくても大丈夫」 と、元気よく答えたつもりだったが、今にも泣き出しそうな震えた声が出てしまった。  おかあさんには、本当は、もちろんどうしても聞きたいことがひとつあったのだけれど、なぜだかぼくは、その事を口に出すことが出来なかった。そして、おかあさんと、ぼくには誰にも言えない秘密ができてしまった様な気がした。          
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