おかあさん

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おかあさん

 僕は、顎に紙のブラシを当てて、きっと虚な目をしてしゃがみ込んでいたのだろう。  突然目の前に、おかさんの顔が現れた。  おかあさんは、目を見開いて、もの凄い勢いで僕の右手から紙のブラシを奪い取って、鼻をかんだ紙屑を捨てるように、教室の床に放り投げた。  「何してるの!」  「お帰りの支度をしなさい!」  ぼくが朝、タオルケットの毛玉をもぞもぞと顎に擦り付けている時も、おかあさんは、ぼくを睨みつけて手首を掴んで怒るんだ。だから、最近は、できるだけ見つからないように、壁の方を向いたりして、この至福の時間を密かに楽しむようにして居たのだけれど、今日はもう、全くのノーガードだった。  おかあさんの、怒鳴り声が合図になって、ぼくは現実の幼稚園の教室に引き戻された。  まだまだ延長で園に残る子達は、教室中を走り回ったり、大きなスポンジのようなブロックで囲いを作って、中に入って、内緒話をしている。かと思えば、教室の隅のモニターの前にかたまって座って、やっぱりちょっと口を半開きにして、アニメーションの白黒のネズミを観ている一団もいる。  それとは別に、何人かのおかあさんたちは、先生に挨拶をして、お友達の手を握って立っていたり、教室のドアをくぐるところだったりしている。  ほんのさっきまで、ぼくは一人で、真っ白な空間に居たつもりだったのに、突然お友達も先生も、おかあさんたちも一遍に現れて、なんだか心臓がバクバクしてしまった。それとも、おかあさんが、大きな声で怒鳴ってきたからなんだろうか。  おかあさんは、本当は優しいんだ。「ねぇ、おかあさん。」って、話しかけたら、いつだってぼくの話を聞いてくれる。  幼稚園のお遊戯の練習で、手を繋いだお友達の手が凄くあったかかった事。教室で先生が読んでくれた恐竜の絵本がとっても怖かったこと。園庭に、カマキリがいて、ぼくに向かって、カマを振り回してきた事。大抵は、 「ねぇ、おかあさん。」 って、言えば、ご飯を作っている途中でも、洗濯物を畳んでいる時でも、パソコンに向かって一生懸命お仕事している時でも、 「翔太くん、なあに?」 って、振り向いて、聞いてくれる。幼稚園の先生は、「ちょっとまっててね。」って、言う事があるけれど、おかあさんは、そんなことは言わない。  そんなおかあさんなんだけど、時々、とっても大きな声でぼくを叱る事がある。  これは、今日みたいに、ぼくがどこか別の世界に漂ってる時にも多いような気がするけど、後はよくわからないんだ。でも、ぼくがぼーっとしているときは、おかあさんが側にいるのもわからない事があるから、そのときは、突然大きな声を出されてびっくりするんだけど。まぁ、やっぱり、今日はなんだか、おかあさん張り切ってるなって時が危ない時かもしれない。  「おかあさん、今日は寝坊して、ゴミを出し損ねちゃった。」 なんて、ちょっと元気がないぐらいの時は、実は大丈夫なんだよね。ぼくは、おかあさんが怒ってるところを見たくないから、おかあさんの前で、ぼーっと、別の世界に行っちゃわないようにしたり、おかあさんがやけに張り切ってる時には、ぼくから話しかけないように、結構いつも気を遣っていたんだよ。 
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