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佐々木由奈。
私は"興奮性振動症候群"である。
「由奈、さっきの授業中、少し震えてたかも」
「あぁ、ごめん。教えてくれてありがと」
「今日ちょいちょい震えるね。何か良いことでもあった?」
「えっ……いや、別に。ちょっとね」
綾香からの指摘で思わずドキッとする。
非常に厄介なことに自覚症状が無いため、私の"震え"が現れた際は斜め後ろの席に座る彼女にこうして伝えてもらっている。
彼女の涼しげな声が、私の心を落ち着かせてくれるからありがたい。
しかし、また震えてしまったか。
「どうせ彼氏様のことでも考えてたんでしょ」
「違います。ラブラブバカップルじゃあるまいし」
「ホントかよ。ほら、また震えてる」
「やめてよ、恥ずかしいんだから」
分が悪い話し合いは切り上げるに越したことはない。
なんでもないから気にしないで、と言って私は前を向き直し、帰宅の準備を始める。
正直なところ、綾香の予想は良い線をいっている。
先週、彼氏の直樹からお誘いがあった。この日は親が出掛けるから、俺の家に遊びに来ないかと。
正に今日がその約束の日である。
付き合い始めて三ヵ月。今日はいよいよ、直樹の家に、直樹の部屋に上がれる……。
ガタガタッ、と椅子が暴れる音で我に返る。
どうやら私は、背もたれが軋むほどの振動を披露したらしい。
ちらと綾香の方を見やると、にんまりとした顔がこちらに向けられていた。
ああ、もう。
こんな奇妙な体質になってから、もう十年ほど経つことになる。
"興奮性振動症候群"とは、その名の通り「気分の高揚」や「精神的快楽」によって身体の震えが引き起こされる症状のことである。
要は、嬉しいことや楽しいことがあると身体がブルブルと震えてしまう、そういう病気である。
症状の出始めは主に未就学児の頃であり、大抵の場合は発症後半年ほどで治るが、たまに治らずそのままズルズルと大人になっていくパターンがある。私は後者に該当する。
このパターンは特に"永続性EVS"と呼ばれ、千人に一人ぐらいの割合で存在する。珍しくはあるが、全くいない訳ではないタイプの人間である。
ちなみに"EVS"は《Excitability Vibration Syndrome》の略。
かつて父親にこの病名を説明したら「振動シンドロームってことか」と笑い飛ばされた。メタボリックシンドロームは黙ってて。
「じゃあ、私は帰るから。バイバイ、綾香」
「お気を付けて。彼氏のこと考えすぎて事故に遭うなよ」
「はいはい、分かりました」
彼女には敵わない。体質のせいでただでさえ感情が筒抜けなのに、その詳細まで見抜いてくる人間である。
見た目は少々クールだが、温かい心の持ち主。
綾香は私の病気のことも含めて、良く理解してくれている。私の一番の親友である。
「あ、由奈。これあげる」
「……なにこれ。鶴?」
「そう、折り鶴。さっきの授業中に折ってた」
「真面目に授業を聞きなさいよ」
こういうお茶目な一面もある。それがまたいいのだが。
正門へ向かうと、直樹が待っているのが見えた。こちらに気付いて手を振ってくれたので、私も振り返した。
待たせちゃったかな、俺のクラスは今日早めに終わったから、そうなんだ、といった他愛もない会話をしながら歩き始める。
「今日は震えは大丈夫だった?」
直樹の質問に答えるよりも先に、私は再度確認をした。
「家、行っていいんだよね」
うんうん、と直樹が頷く。それを受けて私は――自覚症状はないのだがおそらく――ブルブルと大きく震えた。
直樹の家までの道中には、この近辺では一番大きいと思われる川がある。
その上に架かる橋を渡る最中、話題は私が手に持っていた折り鶴に移った。
それは先ほど綾香から受け取った折り鶴で、私はそれを自慢するわけではないにしろ、「何を持ってるの?」と聞かれたいがために、左手に握って歩いていた。
しかし直樹がなかなか気付かないものだから私はわざわざ両手の上に折り鶴を載せて胸の前で持ち、まるで捧げ物をするかのような形で歩いていたのだ。
つまりは。何よりもこれこそが最大の原因であり、後悔してもしきれない失敗なのであった。
「これ、綾香がさっきくれたの」
「綾香が折ったんだ。でも、なんで?」
「わかんない。授業中に折ってたんだって」
授業中に鶴なんか折るなよ、とか、そんなにつまらない授業だったのか、とか、そういった話の広げ方が浮かんできて、それと同時に、ひょっとすると綾香は、私が直樹の家に行くことまでお見通しで、その上で緊張しっぱなしな道中の話題提供のためにこれをくれたのではないかと思えてきた。
だから、その時に直樹が言った「相変わらず綾香と仲が良さそうで安心するよ」という言葉は、私に幸福感を味わわせるには十分すぎるものであった。
そうして、私の手から、折り鶴は零れ落ちた。
◇
昨日、直樹が亡くなった。
全校集会で、教頭は不慮の事故と伝えた。
そして続けて、川遊びをする際の注意事項を念入りに説明された。
教室に戻った後も、どんよりとした雰囲気が漂っていた。泣いている生徒も多くいた。
もちろん、由奈もその一人であった。
昨日、由奈から電話が掛かってきた時、私は事態を一切把握できなかった。
慌てる彼女を落ち着かせながら、「折り鶴が川に」「直樹がそれを取ろうと」といった言葉を聞き取って、ようやく意味を理解し始めた。
まだ教室にいた私には、彼女たちがいる場所が分かるはずもなく、ただひたすらに「周りに助けを」「警察と救急を」と伝えることしかできなかった。
冷静さを取り戻し始めた彼女が電話を切って以降、連絡は途絶えた。
それからの結末については、今朝受け取ったばかりである。
電話口から聞こえた「私のせいで」という声がずっと頭の中に響いていた。
彼女は朝からずっと泣いていた。
よく学校に来たと思う。本当に偉い。
俯きながら一日を過ごす彼女を見て、ただそう思った。
だからこそ、私に関わらないで欲しかった。
放課後、由奈はふらふらと立ち上がった。
私は逃げるように帰ろうとしたが、どうしても彼女のことを放っておくことが出来なかった。
辛さを、苦しさを抱えながら、それでも助けを求めてここに来たのだ。
由奈は頭をだらんと垂らしながら私の方に近づき、今日初めて口を開いた。
「どうしよう」
由奈、ごめん、私のせいだ、だって私が折った鶴のせいで直樹は……。
何も、言えなかった。
言葉を発することで、私は彼女を傷つけることになる。
だから言わなかったのに。
「直樹が、いなくなっちゃった」
涙声でそう言われた瞬間、私の中のストッパーが外れた気がした。
その言葉だけは、その事実だけは考えちゃダメだったんだ。
直樹が、もういないことだけは。
怖い。
自覚症状がないことが怖い。
自分の身体がどうなっているのかが分からない。
由奈、お願いだから、顔を上げないで欲しい。
私は今、きっと、震えている。
上野綾香。
私は"興奮性振動症候群"である。
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