好奇心は山をも登る

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「まるであの事件みたいだな」  五十嵐は言いながら、右手の人差し指と中指で挟み込んだ煙草を口に運ぶ。  刑事になって十年。煙草の数は増えるばかりだった。減るものは前髪くらい。最近薄くなってたかもしれない、と五十嵐は気にしている。 「あの事件ってなんすか? ってか、現場で煙草はやめたほうがいいっすよ」  五十嵐よりも五年ほど後輩の佐々木が、手帳を片手に問いかけた。 「佐々木、刑事なら有名な事件くらい頭に入れておけ。普通この現場を見れば、ピンとくるだろ。ひかりごけ事件……昭和十九年に北海道で起きた事件だ」 「ひかりごけ事件? 吹雪の山で起こった殺人事件とかっすか? 二時間ドラマとかでありそうっすよね」  佐々木がそう答えると、五十嵐は煙混じりにため息を吐く。  これをただの殺人事件として片付けられるだろうか。  ここは山登りの玄人が好むと言われている山の中腹、登山家が休憩や宿泊をするための山小屋である。  その中で事件は起こった。  五十嵐は後頭部を掻きながら、佐々木にこう指示する。 「とりあえず今回の事件概要を確認するぞ」 「うっす。被害者は檜山 小次郎、二十九歳。職業は大学講師。容疑者は高嶺 忠明、四十七歳。職業は大学准教授。二人は冬の生態調査のため登山に。途中、吹雪に遭い、この山小屋へ避難。そして被害者が死亡。容疑者は確保済み……って感じっすね」  この話だけ聞けば、雪山で動きが取れず、鬱憤の溜まった二人が揉めて殺人事件に発展した。そう考えてしまうだろう。  しかし、佐々木の言葉には重要な情報が欠けていた。 「佐々木、確認は正確にしろって言ってんだろ、いつも。容疑者は殺害を否定、だが死体損壊については認めている。その上で緊急避難を主張しているってことだ」  五十嵐が言うと、佐々木は山小屋の床に広がる黒くなった血痕を眺めながら、長く息を吐いた。 「本当にそんなことあるんすかね。生きるために人を食ったって」 「容疑者がそう言っているし、遺体の破損具合から考えても真実だろうよ」 「いや、証拠がそう言ってても、人が人を食うなんてことあるんす?」 「二週間だぞ。大した食料もなく吹雪が一週間も続いたんだ。空腹なんてもんじゃなかっただろうよ」  容疑者高嶺は吹雪が止んだ直後、救助と同時に逮捕された。  そして治療後、取り調べを開始。高嶺は衰弱し切った様子で事件の全てを語った。  山小屋に着いた頃、既に衰弱し切っていた被害者檜山はすぐに意識を失い、そのまま死亡。高嶺はその遺体を持ち帰らなければならない、と外の冷気で保管していたが、持っていた少ない食料も尽き、吹雪が止む様子もなく救助も期待できない。そこで止むに止まれず、檜山の遺体に火を通して食した。  その時のことを高嶺は『精神的に追い詰められていた。そうしなければ死んでいた』と主張しており、命に危険が及び法を犯す『緊急避難』だったと述べている。  五十嵐と佐々木は、高嶺が檜山を殺害していないかどうか調べるために山小屋へと訪れていた。 「違いは、海か山かってくらいだな」  五十嵐が呟くと佐々木は首を傾げる。 「何がっすか? ああ、さっき言ってた事件との違いか。人が人を食った事件だったんすか、そのひかりごけ事件」 「日本で最初に法で裁かれた食人事件だ」 「それって何罪になるんす? 食人罪?」 「日本にそんな罪はねぇよ、食人って規定すらない。罪名は死体損壊だ、ひかりごけ事件ではな」  佐々木の的外れな疑問に答えつつ、五十嵐は周囲を見回した。  この現場は、初動捜査の段階で鑑識がある程度調べている。新しく証拠が見つかる可能性は低い。それでも現場に来たのは、五十嵐の刑事としての『やり方』を通すためだ。  黙って山小屋内を彷徨く五十嵐に、佐々木が声をかける。 「つか先輩、ここより容疑者自宅の捜査でも、大学での聞き込みでもした方がいいんじゃないっすか?」 「自宅は鑑識が調べてる。大学の聞き込みも他の班がしてるはずだ。それに被害者と容疑者の関係を今更洗っても何も出ないだろう。大学の准教授と講師、この二人の間に問題があって殺人事件が発生したのなら、すぐに情報が出てくる。まだ何も出てこないんだから、大した問題はなかったと見ていい。もしも突発的な殺しなら、現場に何かある可能性の方が高い。それだけだ」 「でもここも鑑識が調べたあとでしょ。何も出てきませんって。暖炉の中の煤まで持って帰ってるんすから」  佐々木は屋内に設置されている立派な暖炉に視線を送った。  その言葉は佐々木にしては珍しく、正しい。 「そりゃそうだが……明らかに容疑者が一人で、大して調べる必要もない状況だと広い範囲で調べないんだよ。見逃しがないとも限らない」 「これってあれでしょ、高嶺が檜山を殺してるかどうかって捜査じゃないっすか。それって殺意の証明をするしかないってことで、推定無罪のまま終わるパターンでしょ。死体損壊については認めてるんですし」 「……気になるんだよ」  五十嵐が苛ついた様子で言うと、佐々木は手帳を閉じて聞き返す。 「何がっすか? 人の味?」 「馬鹿、違ぇよ。いいか、高嶺や檜山は山岳生態の研究者だ。動植物のプロフェッショナルであると同時に、登山のエキスパートだぞ。その二人がこの時期に登山していたこと……違和感はないか? 山の麓に住んでいる者なら誰でも知っているらしい、この時期吹雪が止まないことを」 「それじゃあ、二人は吹雪が来ると分かっていて登ってきたってことっすか?」  佐々木の疑問に頷く五十嵐。 「ああ、そうだ」 「でも研究者だったんすよね? 吹雪の中でしか研究できなかったこともあるんじゃないんす?」 「高嶺もそう主張していた。しかし、その場合は多めに食料を持ってくるだろう。遭難の危険性を考えるだろ、登山家なら」  時期を考えぬ登山、少なすぎる食料。高嶺は全て『計画の甘さ』と主張していたが、どうしても五十嵐は納得できない。  何か目的があってそうしていた、と言われた方が理解できる。五十嵐はその『何か』を探していた。  しかし、何も見つからない。既に証拠として挙げられているものばかりが目に入ってしまう。 「ちっ、何もないか。もう知っている痕跡ばかり見てしまう」  五十嵐が歯痒さを全面に押し出して言うと、佐々木が緊張感を解くために微笑んで見せる。 「いっそのこと見なきゃいいんすよ。目でも閉じて探せば」 「馬鹿か、お前。目を閉じたら何も見えないだけで……」  突拍子もないことを言う佐々木に呆れ、当てつけのように目を閉じた。  その瞬間、五十嵐の脳を鋭い感覚が貫く。 「ははっ、なるほどな」 「何笑ってるんですか、先輩。ちょっときしょいっすよ」 「うるさい、行くぞ」 「ちょっと、どこに?」  下山した五十嵐と佐々木は、真っ直ぐに高嶺を留置している警察署に戻っていた。  目的は一つ。高嶺の取り調べである。  元々高嶺の取り調べを担当していた同僚に事情を話し、五十嵐は佐々木と共に取調室で机を挟んで高嶺と向かい合った。 「刑事さん、いきなりどうしたんですか。慌てて取調官を変更したみたいですけど」  高嶺が不安そうに問いかける。こうして見ると優しげな普通の男性だ。緊急時とはいえ人を食するようには見えない。いや、普通だからこそ『生きること』への執着が発揮されたのだろうか。人間は生きることに汚い。それが普通だ。  五十嵐は胸ポケットから煙草を取り出そうとして、署内が禁煙であることを思い出す。 「ああ、そうだ。クソ、喫煙者には辛い時代だな。いやいや、高嶺さん。別に何かあったってわけじゃないんですけどね、一つだけ確認したくて」 「確認?」  高嶺が聞き返した。その表情はやはり何か不安げである。 「改めて聞くことじゃないかもしれないし、もしかすると傷を抉るかもしれないんですけどね。アンタ『食った』な」 「……だから、何度も答えましたし自分の罪は認めています。倫理的に許されることじゃないことも分かっています……けれど生きるためには、檜山くんの遺体を食べるしかなかった。あの状況では……」  俯きながら答える高嶺。胸の奥にある感情を押しつぶしたような声だった。  そんな高嶺に五十嵐は言葉を続ける。 「本当にそうかな?」 「どういうことですか……」 「さっき一つだけって言ったんだけどね、もう一つ確認。遺体を食べる頃には持ってきていた食料は全て食べ切ってたんだよな?」 「当たり前じゃないですか。もう何も残っていませんでしたよ。そうじゃなければ、誰が遺体なんて食べるんですか。私の計画が甘く、食料をそれほど持ってきていなかったので」  すると五十嵐は自分の鼻を指差した。 「本当にそうかな。刑事の嗅覚ってのは、何も勘のことだけを言うんじゃないんだ。確かに現場に残っていた証拠品は全て、アンタの証言を真実だと語っていたさ。しかし、残るのは物質だけじゃない」 「……本当に何を言っているのか」  高嶺が顔を強張らせて唾を飲む。不安そうな表情は、明らかな動揺へと変わっていた。  今だ、と言わんばかりに五十嵐が佐々木に合図を送る。 「佐々木」 「うっす」  指示された佐々木は手元にあった書類を机の上に置いた。そこにはいくつかの表と数値が並んでおり、専門家でなければ理解できないだろうものである。  そんな書類をコンコンと拳で叩いてから、五十嵐は口を開いた。 「それで、どれが一番お口にあったんですかね、先生」 「だから、何を」 「先生くらいならわかるだろう。というか、ここにはアンタが持ち込んだスパイスの種類が書かれている……山小屋で俺は、スパイスの香りを感じた。血の匂いが薄れ、ようやく現れたって感じかな。そこで専門業者に臭気検査を依頼した。その結果だよ。なぁ……アンタ試したな、人間に合うスパイスを」  真実を突きつけるように五十嵐が言うと、高嶺は何も答えず小刻みに首を横に振った。  それでも五十嵐は追求の言葉を止めない。 「似てるって言葉をここで撤回しておこう。ひかりごけ事件とは全然違う。アンタは人間の肉が食いたくて、檜山さんを殺したんだ。そして様々な味付けを楽しんだ……証拠品なんて残ってるわけがない。全てアンタの腹の中さ。そうだろ?」 「ち、ちが……」 「俺は研究者でもないんでね。よくわからないんだが、人の好奇心ってのは止められないらしい。登山には遭難の危険性がついてまわる。そうなれば食料不足には行き当たるだろう。その時、人の味に興味を持った。これは推測なんですがね。まぁ、方向性さえ決まればすぐ調べられますよ。現代科学捜査舐めんなよ」  すっかり黙ってしまった高嶺を取調室に残して廊下に出た五十嵐は、自分の背中を追いかけてくる佐々木に呼びかけられる。 「先輩、ちょっと待ってほしいっす」 「何だよ、うるさいな」 「スパイスの匂いで気づいたのは、流石としか言いようがないんすけど、どうして高嶺の思考がわかったんすか? ひかりごけ事件について同期に聞いてみたっすけど、誰も知らなかったし。もしかして先輩……」  佐々木はそう言ってから、自分の指を五十嵐の口の前に差し出した。  五十嵐は軽く口角を上げてから、その指に噛み付く。 「痛っ! 何するんすか!」 「お前が妙なことするからだろ。ペッ、不味い。食えたもんじゃねぇな」 「食い物じゃないですから」  抗議する佐々木をおいて五十嵐は歩き出した。  思い出すのは、刑事になって最初に捜査を担当した殺人事件。猟奇的なほどバラバラにされた遺体を見て、吐きそうになったこと。  その後数週間は肉が食べれなかった。あの現場を思い出してしまうからである。同じ肉のような気がして、どうしても食べられない。  気持ちが落ち着き、肉が食べれるようになった頃、五十嵐の中に妙な感情が生まれた。今度は事件現場の遺体が食肉と同じに見えて仕方がない。  ああ、どんな味がするんだろう。 「ひかりごけ……高嶺がさっさと話さないから、合うスパイスを聞きそびれたな」
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