風鈴と薔薇

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 家を手放すことになった。  祖父母も死んで、四人住まいにこの家は大きすぎたのだ。ちょうど、父の栄転が決まったこともあった。  新居は都会だった。中古で買った、マンション暮らし。 「庭はもう、ない方がいいだろう」  そう言ったのは、父だった。  かつて家の前に広がっていた空間はなく、代わりにこじんまりとしたベランダが備え付けられていた。洗濯物を干せば、それでいっぱいになってしまいそうな、そんな狭いベランダだった。土いじりどころか、鉢植えひとつ置くのにも、工夫が必要だろう。  薔薇の香りももうしない。家族でローズティーを飲む習慣も、次第になくなっていった。むしろ、買おうとするものなら、母親が断固として許さなかった。  それがなんだか心細くて、バイト代でローズティーをこっそり買って、ひとり自室で飲んでいた。実家とは違い、木の匂いがしない部屋。ひと足早く慣れた妹と違って、自分は慣れるまでに時間が必要そうだった。  そうして移り住んで数年が経ち、ある日、父に呼び出された。 「父さんの遺言でな」  どうやら、私が成人するのを待っていたようだった。 「あの家は、お前にやるとのことだった。俺としては、あんな家、もう売ってしまった方がいいと思うんだが」  それでも、祖父の遺産であることに間違いはなく、相続先が私であることも揺らがない。父の考えは固そうだったが、それでも私の意志を汲もうという真摯な姿勢が感じられた。 「ちょっと、考えさせて」  大学の夏休みは長い。それを利用して、実家に戻ることにした。両親に言うと反対されそうなので、行き先は妹だけに告げた。とっくに水も電気も止まっているから、寝泊りは近くのホテルを予約した。  祖父と一緒に手入れをした庭は、さすがに何年も放置されて荒れ放題だった。家の中もだいぶ傷んでおり、父が言うように、手放すのがいちばんだろう。  家に帰る日。ホテルのチェックアウトを済ませたあと、まだ少し時間があるともう一度実家を覗きにいった。縁側に立つと、誰も住んでいないはずなのに、鈴、と風鈴が震える音がする。  まるで招かれるように、スーツケースを縁側に置いて、裸足のまま庭に降りた。
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