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或る側近の手記〈上〉
我が主が先の戦で大砂漠を越え、彼の国の都を陥れんと大遠征に向かわれた時の事で御座います。
平生の砂漠は、風を知らぬと言わんばかりに凪ぎ、陽は眼を開く事が艱難な位に激しく照り、砂紋の禍々しさは古の呪いを呼び起こさんとの威勢なので御座いますが、或るオカルト・サイエンシスト曰く、八月の終わり、天上の神々が我が主の度々の善行に微笑し、大砂漠を終日夏の月夜に染め上げるとの事。
其の言を奏聞された我が主は、無論、一万余の軍勢を以て、天地開闢以来、比類なき御威光を御姿に纏い、夕陽が落ち様とする大砂漠に踏み入れられたので御座います。然るに、成程、幾日を経てても燦爛たる月夜は明けず、悠々と進軍なさる事、何者も妨げるに能わず、喉が渇けばオアシスが現し、腹が減れば瞬く間に果樹が林の様に生え揃ったと聞き及んで居ります。
因って、我が主は、一月も経たずして、美酒宝物を引提げ、美男美女を引き連れて凱旋なされました。近衛の兵の言を借りるならば、彼の国の都に辿り着くか着かぬかの内に、我が主の御威光を前にして、敵共は鎧を脱ぎ武器を置き、平伏致しましたとの事で御座います。即、我が主は一滴の血さえ見ぬ儘に、先代の頃からの怨敵を、天上の神々さえ及ばぬ、聖と慈悲を以て平定なされたと申し上げた所で、満更誇張とは言われますまい。
扨、我が主は、南方へと版図を拡げた次は、西方討伐へ向かわんと企てて居りましたが、丁度、其の頃――天上のユートピアに咲く櫻が、祝福の桃葉を落として居るかの様な、何とも趣深い晴れやかな十二月より、頭を悩まさざるを得ぬ事が起こり始めたので御座います。勿論其れは、増々満ち滾る我が主の御威光を前にして、神羅万象の理が戸惑いを起こしたが故の事で御座いましょう。決して、俗世間の類推する様な性の慾という悪徳が斯様な事態を生んだのでは無いと申し上げる事、我が命を賭けても宜しい。
去る十月の初、我が主は、慈悲深く哀憐の美徳を尊び、彼の南国の女王の娘を妻の一人として迎え入れたので御座いますが、その愛情、傍目から見ても無勿体き程の物で、故にその娘――パルムと申す――が、増長したのも無理無き事と申しましょうか。我が物貌で王宮を跋渉する様は、皆、相貌が崩れる程に眉を顰めた位で御座いました。然し、彼の如く有様と雖も、我が主は、其の頗る悪辣な愚行に対しても御寛容を示され、先からの妻子への其と変わる事無く、慈愛の微笑を湛えて居りました。
扨、続く一月の事で御座います。禍なる事に、此の国の至所で、颱風の如き大吹雪が、無絶間く強襲うと云う有様でして、以之、家は毀れる、道が寸断れる、疫病が流行る……其れは嘸、雪解けの春には、毒と腐の土壌が眼前に拡がるのでは無かろうかと思われる様な、惨憺たる様で御座いました。颱風は朝を終えず驟雨は日を終えず……等と申す言が有ると云うのは、屹度大噓を評したに違い在るまいと添思われました。
併し乍ら、天上天下に比類無き程に慈愛深き我が主の事ですから、普く民々へ彼ら一生に一度有か無かと言う位の御施しを成されまして、不恩知の貴族から不埒な賊まで、感涙感銘之有、枯れる程の涙を流し、而して、我が主の肖像画を家に飾り服の裏に忠誠の印を縫い付けた位で御座います。仮も落命する事が要ならば、我が主のために犠牲に相成ろうと誓い申す者も在りました。
然し、我が国とは相異なり、周辺の諸国は、暗澹たる春を迎え夏になる前には飢えに渇きに民々が辛苦を嘗、王侯貴族の屋敷を護る兵の刀が血で潤い、剰え其の刃で己が主の息根まで断めた者も在ると申す。
十方八方見渡しましても、無勝者程の慈愛に満ち満ちた我が主の事ですから、先に妻にした南国の姫君――パルムが、元の王宮へ帰る等と、憐れ極まる様を晒し泣き喚くのを見れば、今迄にも増してお可愛がりになられましたのは、至極当然の事故、敢て申し添える程の事でも御座いますまい。
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