2人が本棚に入れています
本棚に追加
或る王妃の証言〈上〉
嗚呼、妾の愛しの人は、冷酷無惨と云う事を、不幸かな、悉く味い尽されて仕舞たのです!
北の国から、恰も湿った敷物の下の黴の如く忍び込んで来た者は、何を隠そう、彼の悪魔に違い有りません。百年、二百年に一度の大災厄の折、飢餓に苦しむ民共を無顧事、酒池肉林、豪奢なる放蕩に沈湎し、血と搾取とで凝固められた王宮に於て、性に惑溺し慾の儘に身を任せたと云う、十方八方を見渡しても二人とは居る舞い、大悪魔で御座います。
嗚呼、妾の愛しの人よ。妾より激しく愛で育んだ娘が強奪され、慾深き悪魔の慰み者と成る悲しみを、余に甚しき刀杖瓦石の難を、天上の神々に対しまして、天網恢々疎にして漏らしたと誹りたく思う程で御座います。
然し、妾々には、彼の不倶戴天の敵を、地獄の底へと叩き堕とし給うと、無量無辺を統べる神々へと祈るより他は御座いません。妾の愛しの人に仕えた兵達も、先の戦で天の国へと昇り、蓮の萼で、無念慚愧に震えて居りましょう。
嗚呼、妾の愛しの人を慕い忠誠を尽した兵達よ! 汝等の双眸から零れる涙が何故、忘れ去られる事が有ろうものか! 聞け! 妾の愛しの人の慟哭を! 風は凪いでも此の国の旗は敢然とひらめき、大砂漠を大龍の如く舞い、汝の仇を討とうと、数千幾の兵々が縫うように北へ北へと進んで行くのを見られい!
門前雀羅を張る王宮の庭を歩いて居りますと、妾の愛しの人が出陣する前々日の事を、寂しくも思い出して仕舞います。
去る日の事。妾の愛しの人は、房事の後に眠った妾に背を向けて、裸の侭窓の前の籐椅子に座りまして、冷たき夜の底に沈み黙した砂漠の先を見つめて居りましたので、訣を聞いて見ました所、形容し難い程の厭夢を見たと云うので御座います。
其の夢と申しますのは、不倶戴天の敵で在る彼の悪魔が慰み者とする妾の愛しの人の娘が、父の授けた懐刀で、口惜し涙の房事の後、飽くなき慾に今宵も飽き足り無と云う様な貌で眠っている彼の悪魔の脇腹を、命終させるお積りで突き刺したとの事。
併し、彼の悪魔は、妾々とは別種の生物ですから、絶命する筈が無く、此の世の者とは到底思えぬ様な嗜虐の嘲笑を浮かべたかと思うと、天蓋の幕の裏に隠れて居た側近達に命じて、民々の見世物にした挙句、火刑に致したとの事で御座います。
裸体の儘、聴衆の眼前で磔にされた妾の愛しの人の溺愛する娘が、放射状に結ばれた蜘蛛の巣の様な縄から焦し乍ら蠕動して来る火炎に獣の如く絶叫し、己に待ち受ける宿命を、最期まで受け入れることが出来ぬ侭に、人々が眼を背けざるを得ぬ程に惨たらしく身悶えする有様を、彼の大悪魔は、堪ないと云う様な喜色満面の形相で哄笑して居た――と、斯様な次第なので御座います。
斯の如き由を聞いた妾は、口惜しき屈辱に涙を流す妾の愛しの人を、此の胸に優しく抱いて、同じ様に歔欷いて居りました。妾たちは心身を慰め合い乍ら、夜明けが来るのを待ち望んで居たので御座います。
最初のコメントを投稿しよう!