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或る王妃の証言〈下〉
扨、妾の愛しの人が、多くの信心深き兵々を引き連れ、砂漠の向こうへと見え無くなって仕舞いますと、不思議な事に、妾には嫌な予感が致しました。無論、必や、彼の国の中天で勝鬨を上げる事で有ろうと確と信じて居たので御座いますが。…………
王宮に残った者は、妾と妾の愛しの人のご子息――レイク殿という――位で御座いました。レイク殿は己が父の不在の間、類稀なる辣腕を揮い、此の国をお護り下さりました。
更、レイク殿は、心の拠り処で有る妾の愛しの人が傍に居てくれ無事に悲しむ妾を、お父上と遜色の無い献身的な愛情を以て支えて下さったので御座います。恰も、妾の愛しの人が妾の為に残した分身の様で有りました。
扨、吉報は突然に届いて参りました。
天上の神々の微笑に微笑返すかの如く、妾の愛しの人は、不倶戴天の敵が、悪辣な政を以て治める彼の国を陥れました。更、彼の悪魔の妻子皆々を救抜なされたのです。無論、彼の者達が咽び泣き、球の様な涙を見せた事は申し添える迄も有りますまい。
然し、不幸な事にも、妾の愛しの人は、最愛の娘の生命を救う望を叶えられず、城砦の影の火刑の跡を其の眼で確められた折には、生滅遷流の理に身を任す事の徳を説いた一句を、涙を零し乍ら手向けたとの事で御座います。
斯くの如き様子を伝え聞いた折に、妾の胸中には、真夏の陽に灼かれて行くイカロスの蝋の羽を間近で見て居るかの様な、残酷な感動が押し寄せ、双眸からは茫洋たる大海の塩水よりも辛く苦い大粒の涙が、玲瓏とした咒文に魅了された水晶の様な、妖しくも純然な輝きを放ち、此の部屋の外を廻る欄干の上から、古今東西を花々に喩えて見せている庭へと逆らう事無く正直に落ちたのは、殊更に申し上げる迄も有りますまい。
然し、何とも恐ろしき事に、デイモンの執念深さは筆舌に尽くし難い物で御座います。彼の国の王が悪魔だったのでは無く、彼の国の王宮の玉座こそが、悪魔の本領なのに違い有りません。妾の愛しの人は、忽ち悪魔に憑かれ、狂乱で狡猾な気性に相成りました。先の王の妻子を慾に搦め取り、信頼して居た家臣をも続様に残虐非道な手段を以て処刑する様は、インフェルノの統領と申しましても、誇張とは言われますまい。
酒池肉林を栄耀栄華と履き違えた濁々とした悪心を糺さねばならぬと決意し、威風堂々と勇み立ったのは、勿論、妾の愛しの人の子息、レイク殿で御座います。砂漠の灼熱の中を、臣下僅か二、三人を引き連れて、一睡一食する事無く跋渉し、父と久闊を叙しましてからは、一昼夜、愛と忠義と孝行の言葉を、天使が神へとする奏上の如く繕い、説得しようと試みました。
併し、何故、天上の神々が遍く世界を神聖なる威光で瀰漫させる事が叶わず、悪魔に住処を与えて居るのか。此事は、今更弁じる迄も有りますまい。
痛ましくも、デイモンの軍門に降った妾の愛しの人は、伝え聞く所に拠ると、無邪気なる微笑を崩壊させ、血と慾に塗り潰された剣を、己の心身の塗装と変らぬ泥の様な色をした鞘から抜き出して、溺愛していた頃の事を忘れたかの様に、一閃、レイク殿の面を切り付けたので御座います。
然し、親子の絆が断ち切れた後に、妾の愛しの人は硬貨が裏返る如く正気を取り戻しまして、瞬く間さえ無く相貌が変色し、紅の絨毯を濃く朱く染め上げる血に打ち震えたとの事で御座います。無論、続く刃が、自らの腹を目がけて光りました事は、云う迄も有りますまい。
嗚呼、天魔波旬よ! 冷酷無残な運命を妾の愛しの人に用意するに飽き足らず、其の生命をも簒奪するとは、何とも酷い仕打ちでは御座らぬか!
以上
上ノ史料ハ爾云。無論異論有リ。次ノ史料ハ彼女ノ悪事ヲ暴ク物成リ。
記筆者
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