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僕はジョセフソン,君の名は?――ジュピタラー親衛隊隊長が囁きかけるなり殺し屋シンユーの怒りは最高潮に達した。2人の殴りあいに喚声をあげつつ集まってきた見物人たちも猛威をふるう病原菌に冒されるみたいに争いに巻きこまれ,船内は暴力の坩堝と化していく。舵を握るはずの船長さえボトルを振りまわし闘争に没入した挙げ句,夜の海を迷走する船は核兵器搭載潜水艦と激突するのだ。世界は壊滅し,黒い灰の降る死体の堆積から這いでる男が大量の血を吐いて地に伏せば,忽ち皮膚や肉は溶解したのち,骨や臓の混合物に沈む頭部が原形を留めながらまだ人間であろうとする。何て言ったの? 救いを求めているの? 嗄れた声を発する薄汚れた顔面は紛れもなく僕のそれなのだった……
身震いして目覚めた僕にジョセフソンが囁きかける。悪夢の再現だ。僕の見る悪夢は大抵現実化されてきた。予兆夢というものなのかもしれない。
シンユーとジョセフソンをとめようとするが,2人は聞く耳をもたない。乗組員たちもあっという間に闘争の渦に巻きこまれ,船内には夢に見たとおりの修羅場が広がっていく――
死ぬぞ!――みんな死ぬぞ!――おまえらもおまえらの家族もみんな死ぬんだ! それでもいいのか?!――
喉のさけんばかりに声を張りあげてみるが,誰もが暴力に憑かれている。
料理や割れた食器の散乱する床に座りこむ。
羅州に対する殺人未遂や,行方知れずになった猫のウツツと絵。シンユーとの出会いや,彼から僕を救出するために瀕死状態に陥った英国公爵ジュピタラー。数日のうちに多くのことがありすぎて疾うに疲労に押しつぶされていた。
抱いた両膝に頭をうずめ,何も見ないようにする。
「また逃げるの! 逃げられると思うの!」
はっとして顔をあげる。
いりまじる無数の暴言のなかに双子の兄の声を聞いた。
そうだ――僕はもう逃げないと決めたはずだ。恐れに立ちむかい必ず空告のもとへと辿りついてみせる。そして空告の叱責を受けとめて罪の許しを請うのだ!
航海士との組んず解れつの乱闘にかまける船長の傍らで,舵が空転している。
放置しておけば核兵器搭載潜水艦と衝突する。つまり世界の破滅へと突きすすむのだ。
何も分からないが,大きく舵をきった。
突如急浮上した鉄艇と擦れちがう!――むこうがロシア国籍の潜水艦であることを告げて停船せよと強烈な光線を照射する。
船長に報告するが,航海士の首を絞めるのに忙しいらしい。
潜水艦の警告を無視するも,威嚇射撃が数発加えられただけに過ぎなかった。潜水艦が背後へとどんどん遠ざかっていく。よかった……攻撃からも衝突からも免れた。
「俺さまのテリトリーを荒らしてくれんじゃねぇか」潰れた鼻から流血する髭面男が見おろしている。船長だ。次の標的を僕に定めたようだ――
船体が軋むような不審な音をたてた。人の制御に抗って舵が独りでに動きだす。抵抗不能な力で吸引されつつ全身のもっていかれそうになるのを舵にしがみつく。その脇を大勢の人々が飛ばされて船体前方先端部のガラス面に張りついていく。ガラス面を埋めつくしてもなお幾重にも吸着し,重層的な人体壁が創造されていく。
「てめぇ逆走しやがったな!――」舵に片腕を絡め,何とかもちこたえている船長が泣きわめく。「こっちにゃ来ちゃいけなかった! オーシャンホールが待ちかまえてんだよ! みんなのみこまれっぞ! みんな死んじまう!」
だから僕は喧嘩するなと言ったんだ!――
脳内を抉るような不協和音が発せられ周囲は闇につつまれた。体が宙に浮く感覚のあと衝撃と破壊音に襲われる。船は駄目になってしまったことを知る。
誰かに名前を呼ばれる。シンユーだ。シンユーの声が顔の真横で聞こえる。僕は人体堆積のなかにいる。積み重なる人々の手足を押しわけて脱出する。
人間1人分の空いた余地を頼りに,シンユーも這いだそうとするが,すぐさま余地は密閉されてしまう。
「こっそり忍びこむつもりが,堂々と登場しちゃったね……」血塗れの顔を覗かせてシンユーは眦の尖る大きな両眼を伏せた。いつになく気弱なさまが身震いしているようにも見えた。
「マドカだ……」溜め息まじりの声が漏れた。
マドカという無名画家の名を述べたのは,長い白髪を靡かせる長身の男だった。彼は,白い貫頭衣を纏う一団の先頭で,ランタンを掲げて人体堆積を眺めている。
静なる人々の重なりのうちに,意識のある少数の人や,痙攣を起こす身体の各部位が微かに且つあるときは激しく震えている。それら震えの繫がりはまるで一体の生きものみたいだ。人体壁のキャンバスに,潜める龍の昇天が描出されているとも表現できる――そんな捉え方をする自分がひどく嫌悪された。
「まさしくマドカだ。マドカの世界観を具現している……」
「こんなのは芸術じゃない!」僕は,見惚れた表情の白髪男に怒鳴った。「あなたのマドカを知ってる理由はいずれお尋ねしましょう! そんなことより今は助けを呼んでください! 一刻も早くみなさんを救出しないと――」
「助けなど――」男が僕の言葉に自身の言葉をかぶせた。「助けなど呼んでも来るものですか」
男の背後の者たちが口もとに手をあててウフフフフフフゥと蠢いた。
「オーシャンホールのある海域に誰も助けになど来ません。それに如何にして助けを呼ぶのです。通信手段もないのですから。もちろん電磁波とかいうものも通じていません」
「でも!――」僕は食ってかかった。「放っておくと死んでしまいますよ! みんな死んでしまう!」
「死ぬ者は死によって贖罪を果たすのでしょう」
「ええ!?―――何ですって!――」
「ここに来る者はみな贖罪を果たすために来るのです。贖罪を果たすために彼らは死んだ。それが真実です」
「悪いが,何を言ってるのか分から――」
「あなたもそうなのではありませんか」男がまた僕の言葉を遮った。「あなたも贖罪を果たすためにここへいらした。お兄さまに――空告さまに――懺悔されたいのでしょう――そうなのでしょう」
僕は冷たい微笑に身震いした。
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