輝板(タペタム)2(猫を狩る 19)

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輝板(タペタム)2(猫を狩る 19)

2 「あら、桃実ちゃんのワンピースすっごい可愛い。由香里って、センスいいわね。あら、サンダルもお揃いのピンクなのね。素敵。陸也くん、今朝は何してた? マコはね、ブロックでお城作ったんだよね」  ハイウエスト切り替えのデニムのワンピースを着た岸田は、ドアを開けるなり、桃実の服を大げさに褒めた。先週岸田に会ったときに、桃実が同じ服を着ていたことは、おそらく覚えていないのだろう。数ヵ月前に、陸也の支度に手間取って桃実の格好をまったくチェックしないまま家を出てきてしまったことがあって、そのとき桃実は黄色いTシャツに赤い水玉のスカートをはいていた。そしてやはりそのときも、由香里ってセンスいいわねと、大げさに褒められた。 「びょういんに行った」  岸田がかすかに眉根を寄せるのを由香里は見逃さなかった。 「あら、陸也くん、具合悪いの? マコのために無理して来てくれなくてもよかったのに」  耳鼻科に行ったなどとうっかり言わないようにしていたのに、陸也が口を滑らせてしまった。もっとも下手に口止めなどをすると、口止めされたという事実まで発覚してしまう。 「風邪はとっくに治ってたんだけど、耳に来ちゃったみたいで。耳鼻科に連れて行ったの」  感染るような病気ではないことをアピールしておかないと、あとでそんな噂を立てられるかわからない。岸田は病気に関しては異常なくらい神経質なのだ。 「そうなんだ。耳に来たって、中耳炎?」 「そうなの」 「やっぱり菌なんでしょ。中耳炎起こすのって?」  たしかにそうだけど、中耳炎が流行ったなんて話はきいたことがない。 「感染ったりしないから、大丈夫よ」  陸也は誠に袖を引っ張られて、子ども部屋に駆けて行った。桃実だけが、由香里の後ろで居心地悪そうに突っ立っている。 「でも、元は風邪なんでしょ。そうそうちのお義母さん、風邪引くと耳鼻科なのよ。だから風邪の人も多かったんじゃない?」  そんな、一見しただけではどこが悪くて通院しているのかなんてわからない。陸也の前に診察を受けていた子も、中耳炎で鼓膜の切開を受けていた。 「とにかく、先におやつにしない? 陸也くんも桃実ちゃんもおてて洗ってきてね」  桃実は黙って頷くと、洗面所のドアを開ける。由香里は、子ども部屋で遊んでいる陸也呼びに行った。出されたクッキーを食べてしまうと、男の子たちは、ブロック遊びに戻る。桃実は持ってきた携帯ゲーム機で遊び始める。耳鼻科の待合室でもずっとゲーム機で遊んでいたことを思い出した。岸田にそれを知られたら、追い返されそうな気がする。自分達がばい菌をもたらしに、岸田家にやってきたような気分になる。  幸いなことに、中耳炎の話題はそれ以上の展開を見せることにはならなかった。岸田自身のふたり目の妊娠の経過や、幼稚園ママの噂話で盛り上がっているうちに、強い西日が差し込む時刻になった。  窓の外を見ると、ウォーキングにでも行くようなハーフパンツにサンバイザーをかぶった、この辺りでは見たことのない女性が、階段口から出て来るところだった。桃実と同じぐらいの歳の女の子をふたり連れている。よく見るとひとりは花梨だった。今朝桃実が言っていた、花梨の友達とその母親にちがいない。ピンクのサンバイザーをかぶった女は、ブルーの軽自動車にふたりを乗せ、走り去る。また桃実が何か言い出すと面倒だと思ったけれど、桃実は飽きもせずにゲームに集中している。 「いやだわ、気をつけてるのに、今月二キロも増えちゃったのよね。ねえ、由香里は陸也くんのとき、何キロ増えた?」  妊娠初期からの岸田の体重の推移について、さっきから延々と話を聞かされていたところだった。つわりが終わったところで異常な食欲が湧いてきて一気に四キロも体重が増えてしまったので、低カロリーのメニューばかりにしたら夫に激怒された、というところまで聞いた。 「え? 十キロだったかしら?」 「先生に怒られなかった?」  そのころのことは、あまりに忙しくてよく覚えていない。たしか体重増加は8キロまで、と指導されていたような気がするけれど、桃実の世話に振り回されて、何をどう気をつけたらいいのかわからないままで、体重のことなどもたいした注意を受けなかったような気がする。 「何も言われなかった。ゆるい産院だったから。でも、なんで男って、こっちがいろいろ考えてヘルシーなものを作ると文句を言うのかしらね?」 「ちがうのよ。マコがひじきとか、おからだとかそういうものを食べないのよ。だから、カレーとかハンバーグにしてると、太っちゃう」  低カロリーメニューを嫌がるのは、夫ではなくて子どもだったのか。うっかり聞き漏らしていた。 「食事のことは、説明したら一応わかってくれたんだけどね、問題はあれなのよ。おなかの子に何かあったら、いやじゃない。それにこっちはマコの世話とか家事で疲れちゃって、眠いのに。そういうこと全然考えてくれない人なのよ」  またか。岸田の夫自慢。愚痴を言うような振りをして、夫がどんなに岸田のことを執拗に求めてくるのかを延々と聞かされるのは初めてではない。まだ結婚したくなかったのに、半ば無理矢理妊娠させられて仕方なく結婚したという話から始まり、今日に至るまでの、岸田の夫の絶倫っぷりを聞かされているので、ばったり会ってしまったときについ赤面してしまう。外見は真面目そうな感じの人なのに。もしかしたら岸田の作り話なのかもしれないけれど。 「へえ、ラブラブなんだから仕方ないじゃない。切迫早産とかじゃなければ、大丈夫だっていうし」   ブルーの軽自動車が消えた路上を何の気なしに眺めていたら、グレーのスーツを着たまとめ髪の女が階段口から出てきた。新聞の集金の来る人に似ていたので、不在の間に由香里のところにも来てしまったのかと思って、椅子から立ち上がって窓際に移動した。新聞の集金の人ではなく、郁子だった。今までラフな格好をしているところしか見たことがなかったので、驚いた。 「あら、谷村さんじゃない。仕事でも始めたのかしら?」  保険の外交とか、郁子はそういうことをするタイプではないけれど、たしか花梨が小学校に上がったら働きたいといっていたような気がする。岸田は窓の外を一瞥すると、 「そうね、仕事かもしれないわね。よくめかしこんで出かけていくもん、最近」  と言って、口元をゆがめるようにして笑った。細めた目が好奇心に輝いている。 「ほら、人妻なんとかってあるじゃない。猫といい、子どもといい、奥さんといい、一家全体でサカリがついてるわよね」  由香里は慌てて桃実を見た。相変わらずゲームに熱中しているようで、由香里の話を聞いているようには見えない。 「桃ちゃん、ちょっと陸也見てきてくてくれる? あんまり静かだから何かいたずらしてるかもしれないし」  桃実は、携帯ゲーム機のスクリーンから視線を離さずに生返事をすると、子ども部屋にのろのろと歩いていった。そもそも、岸田が郁子と郁子が飼っている猫の悪口をいうのに適当に調子を合わせていたときに、桃実に話を聞かれていたことが、郁子との仲たがいの原因だったのだ。違う学校に通っているとはいえ、この先花梨と顔を合わせることがないともいえないので、用心するにこしたことはない。 「仕事って、あの、デリヘルとかそういう感じの?」  あの、どちらかというと地味で引っ込み思案な郁子に限ってそんなことはないと思いながらも、岸田の思わせぶりな言い方は、由香里に話題に食いついてきて欲しいときのそれだったので、はっきりと言ってみた。言ってしまってから、ひどくいやな気分になった。岸田はわざとらしいため息をひとつつくと、 「谷村さんって、ご主人はすごくいい人なのにね。ああいう人ってやっぱり、簡単に取り入られちゃうものなのかしらね。ほら、おとなしそうな顔してすごい自分勝手じゃない」  郁子の夫は、岸田に言わせるとこの辺では評判がよいらしい。名前は忘れてしまったけれど、芸能人の誰かに似ている。郁子の家には何度も桃実を連れて行ったけれど、休日も谷村が家にいたためしはない。郁子には、仕事が忙しく、帰りも遅く、休日も出勤していることが多いといわれたきり、夫の話を聞かされることはなかった。ただ、スーツやネクタイだけはまめにクリーニングに出していた。潔癖な性格というわけではないし、郁子自身が着ているものに関しては、こだわりらしきものはみられなかったので、そのあたりが、夫の容姿に対する無言の自慢のように思えた。相槌に困ったので、頬に曖昧な笑いを浮かべたまま立ち上がろうとして腰を浮かせると、 「ねえ、ご主人に密告してやろうかしら?」  と、岸田が追いうちをかける。子ども部屋でおもちゃ箱がひっくり返るような音がした。誠にせがまれて携帯ゲーム機を貸したら、なかなか返してくれなくて、怒った桃実がブロックの入ったおもちゃ箱をひっくり返したらしい。岸田は子どもにゲーム機を買い与えない方針らしく、桃実がゲーム機を持ってくるのをよく思っていないのだ。桃実を叱り、ブロックを片付け、岸田に謝り、夕食の支度があるからと言って岸田家から退散した。
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