輝板(タペタム)3(猫を狩る 20)

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輝板(タペタム)3(猫を狩る 20)

3  それから、あのブルーの軽自動車をよく見かけるようになった。おそらく今までもマンションの向かいに時々停まっていたのだろうけど、気に留めたこともなかったのだろう。郁子が、新しい友達をつくるのを妨害したくなるほど、心が狭いわけではないけれど、郁子に対しては、拍子抜けするような、肩透かしを食らったような印象を抱いていた。もともと他人行儀というか、本心を口にしないようなところは気になってはいたけれど、あんなことになっても傷ついたふうでもなく、さっさと子どもを越境入学させ、それなりに上手くやっている様子に、かすかな苛立ちを感じるのだ。もちろん、公園を使っている母親たちと徒党を組んで猫をつかまえに行ったり、苦情を言いにいったりして、郁子を追い詰めておいて、そんなことに苛立つのは間違っているということぐらいはわかる。猫を毛嫌いしているのは岸田と岸田に同調する数人の主婦だけで、由香里自身は、猫のことなどどうでもいいと思っている。あの時にすぐ、郁子が相談してくれたら、岸田との間に入って仲を取り持っただろうと思う。でも、郁子はそんなことなんでもないとでもいうように、由香里とのつき合いをやめてしまった。なんとなく、切り捨てられたような気分になる。いや、切り捨てられたのではなく、最初から由香里のことなど、どうでもいいと思っていたに違いない。口には出さないものの、自慢の夫がいて、手のかかる下の子はいなくて、毎日学区外の学校まで花梨を送迎する時間もあって、つまり、充足しているのだ。   岸田はいかがわしいバイトでもしているように言うけれど、なにか用事があって出かけただけなのかもしれない。格好だって、特に派手というわけではない。由香里のところによくくる保険の外交の人だって、スーツぐらい着ているのだし。    その日は、家族全員で買い物に出かけた。買い物といっても食料品の買出しがてらに車でショッピングセンターに出かけただけだ。衣料品のチェーン店で達也と子どもたちのTシャツや靴下を買い、子供たちにせがまれて玩具店を一巡して、買え買え攻撃をひとり絵本一冊でかわし、フードコートでお昼を食べるという、いつもの土曜日だった。玩具店で、岸田一家に会った。年配の夫婦といっしょだったので、会釈だけしてすれ違った。そういえば夫の両親が遊びに来ると言っていたような気がした。さまざまな悪口とセットになっていたので、全部いっしょくたになってすっかり忘れてしまっていた。お姑さんが、ふたり目の子どもは絶対に布おむつで育てるようにとうるさいと言っていた。誠くんが三歳を過ぎてもなかなかおむつが外れなかったことを紙おむつを使っていたせいだと思い込んでいるらしい。  男といっしょに買い物に行くと、ろくなことにならない。買い物の途中に達也は突然、今日は俺が本物のカレーを作ってやると言い出し、子どもたちは、本物のカレーという響きにスーパーマーケット中を走りまわってしまうくらいに興奮してしまったので、骨付きの鶏肉や、ココナツミルクや、ガラムマサラや、干し葡萄や、ひよこ豆というような、余ってしまったら。使い途のないような食材をやたらと買い込む羽目になった。達也が料理をすると、台所はめちゃくちゃになるし、桃実がやりたいということを全部やらせて、さらに大変なことになるし、その上五分おきに調味料や食材のありかを聞かれるので、かえって自分でやった方が楽なくらいだった。途中でマンションの裏手にある民家のような倉庫のような建物が燃え出し、皆で見物に行った。すぐに消防車が来て、火は消し止められたけれど、その騒ぎで本物のカレーの進行はさらに三十分ほど遅れた。八時になっても、料理が完成する気配はなかった。そろそろ買い置きのカレールーか、レトルトのカレーのどちらを取り出そうかと思っていたときに、電話が鳴った。 「もしもし、坂本と申しますが……」  坂本などという知り合いは、いない。こんな時間にセールスか。 「えーと、桃実ちゃんのお母さんでいらっしゃいますか?」 「そうですけど」 「あのう、近くで火事があったそうなんですけど、マンションの方は大丈夫なんでしょうか? 今日はけっこう風もありますし……」  桃実の学校の友達の父兄が火事の心配をしているようだ。 「火事はもう大丈夫です。さっき消防車が来たので。ご心配かけてすみません」  そう言ってしまってから、由香里が謝る必要がどこにもないことに気づく。 「よかったわ。谷村さんにかけても、ご主人にかけてもつながらないし、谷村さんのマンションに知り合いなんていないし、どうしようかと思ったら花梨ちゃんが桃実ちゃんちの電話番号知ってるっていうから。ああ、火事はもう鎮火したんですね。どうも突然お電話してすみませんでした。それじゃあ」  坂本と名乗る女は緊張したような早口でそう言うと、一方的に電話を切った。  坂本というのは、おそらくブルーの軽自動車に乗った郁子の友達であると思われる。花梨は坂本家にいて、この近くで火事があったことを誰かから聞いて、谷村家のことが心配になったが、誰とも連絡がつかなくて、花梨が覚えていた由香里の番号に電話をかけてきた、ということなのだろうか。二週間ほど前に見たグレーのスーツを着て出かけていく郁子の姿を思い出す。電話口でのなんとなくよそよそしい対応も、納得がいく。もちろん赤の他人の家に突然電話をかけてきて親しげに話し出すのも無理な話だけれど、おそらく郁子は坂本に、由香里の悪口を吹きこんでいるのだろう。でも、岸田との話の内容を考えると、他人のことをとやかく言える立場ではない。いや、郁子も坂本も、そんなマンションの人間関係のことなど気にすることもなく、友達づきあいを楽しんでいるのだろう。達也にひよこ豆のカレーの味を見てくれと台所に呼ばれたので、鍋の中のまめをひとつ取り出して口に入れた。奥歯で噛むと、煮えてない豆の粉っぽいような味がしたので、流しに吐き出した。
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