輝板(タペタム)4(猫を狩る 21)

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輝板(タペタム)4(猫を狩る 21)

4  火事の日のことを、岸田に話すべきかどうか、数日間悩んだ。  あれから、胸焼けに似たつかえがなかなかとれない。生煮えのひよこ豆のカレーを無理矢理食べたのが原因なのだろうか。翌日、水を足して時間をかけて煮なおしたら、意外にほくほくして美味しかったのだけれど。    同時に、郁子はいったい何をしているのかというのも気になる。一度ではなく、定期的に出かけているのだ。同窓会が二週間に一度もあるわけがない。花梨をひとりで家に置いて遊び呆けているわけでもないし、坂本さんはどこから見ても快活な感じの普通の主婦だ。つまり、由香里が口を挟むような問題は存在しない。つまり、郁子と坂本さんという人は、由香里抜きでうまくやっているということだ。そこのところがどうも、納得がいかない。納得がいかないなんて、あまりに自己中心的な考えだけど、おそらく、それが火事の日以来由香里が抱えているつかえの正体なのだろう。岸田といっしょになって、郁子を悪者にしてしまえば、多少はすっきりするような気もするけれど、あとから気が滅入る原因にもなりかねない。そんなふうに悩んだ結果、岸田には余計なことを言わないでおくことにした。そのかわりに、達也が作ってくれた本物のカレーのレシピを教えておいた。  達也と子供たちを送り出し、掃除と洗濯を済ませてから、食料品の買い物に出かけた。夕食の献立にもっと豆類を増やせば、健康的だし節約にもなると思い、いつもは素通りする乾物の売り場を重点的にチェックしていると、ピンクのサンバイザーをかぶってテニスラケットを抱えた女を見かけた。どこかで見たことがあるような気がしたけれど、誰だったか思い出せずに買い物を続けた。ほぼ同じタイミングで会計を済ませ、スーパーマーケットの外に出ると、駐車場にブルーの軽自動車が停められている。 「あの、坂本さんですか?」  「そうですけど」  坂本はいぶかしげな表情で由香里を見た。 「こないだ電話いただいた、小田です。谷村さんと同じマンションに住んでいるので」 「あー、あの時は失礼しました。見に行ければよかったんですけど、車がちょっと使えなくて」  坂本は、胡散臭そうな表情を変えずにそう言うと、駐車場に向かって歩き始めた。郁子と同じマンションの住人に対して、よい印象を持っていないのだろう。 「あの、テニスってどこでやっていらっしゃるんですか?」  坂本は立ち止まった。よほどのテニス好きなのだろう。 「市のテニスサークルがあるんですよ。ほら、市営のコートありますよね」  そんなことは知らなかった。テニスは学生のころ、サークルに参加して、少しだけやった。筋がいいと言われたけれど、テニスより飲み会の方が盛んなサークルだったのでそれほど熱心に練習はしなかった。 「そうなんですか。誰でも参加できるんですか?」 「できますよ。平日の昼間とかって、コートも取りやすいし、定年退職して、趣味で教えてるような人もいるし」  坂本の話し方が、ほんの少しくだけたものになる。サークルの名前と連絡先を教えてもらい、坂本とは別れた。家に帰ってから問い合わせしてみると、月曜日と木曜日の午前中に、初級者向けのレッスンが行われているようだった。午前中なら陸也も幼稚園に行っているので、参加することができる。ラケットなども貸してくれるらしい。坂本に声をかけるまで、テニスをする気などなかったけれど、すっかりやってみたくなり、翌週月曜日のレッスンを予約した。    講師の名は井口さんと言った。ひょろりと背が高く、頭頂の禿げ上がったおじさんで、生徒は由香里と坂本を含めて四人だった。坂本は、由香里が本当に来ると思っていなかったらしく、驚きを隠さなかった。ショートラリーで坂本と組むことになり、嫌な顔をされるかと思ったけれど、思いのほか息が合い、なかなかよいラリーが続いたので、ふたりで顔を見合わせて笑った。井口さんには、筋がいいとほめられた。    次のレッスンは、坂本とふたりだけだった。月曜日に来ていた人たちは、別の習い事があるらしく木曜日は来ないのだと坂本が言う。  井口さんは、どういうわけか、坂本には厳しかった。それがなぜなのか、レッスンが進むにつれて少しずつわかってきた。坂本さんがものすごく熱心なので、井口さんも厳しくしてしまうようだった。前回のレッスンの倍ぐらい運動したような気がして、ふらふらになって帰った。    市のサークルに入って、テニスを始めたことは岸田には黙っておこうかと思ったけれど、郁子のように憶測で噂を立てられても嫌なので、言っておくことにした。けれど、坂本といっしょだということは言わなかった。楽しんでいる、みたいなことを言ってしまうと、意地悪されそうな気がしたので、井口さんのことを禿げたおじさんといい、他の主婦たちのことも、いい年してかかとのところにポンポンがついたソックスをはいていて、しかも髪型がポニーテールで若作りが痛すぎるとさりげなく悪口を吹き込んでおいたら、すっかり安心したようだった。    郁子は、日中も時々出かけているようだった。ウォーキングでもするような服装で花梨を学校まで送っていき、帰ってきてから、保険の外交員のようなスーツを着て出かけていく。郁子が出かけていった日には、夕方に、ブルーの軽自動車がやってくる。
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