飼われる 3(猫を狩る 26)

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飼われる 3(猫を狩る 26)

3  涼太に引越し先を伝えていないとはいえ、最寄駅から家に着くまではあたりに不審な人がいないかどうかやはり気になる。辺りを見回しながら、ピンクのアパートにたどり着き、鍵を開け、ため息をつきながら靴を脱いだ。会社の代表番号に電話をかけ、テープの音声にしたがって内線番号をプッシュすると、すぐに谷村が応答した。携帯ではなく、会社に電話しろというところが谷村らしい。無事に家に着いたことを告げると、いつもの淡々とした調子で、お疲れさまですと言われた。谷村さんもあまり無理しないでくださいと、美里も大げさにならないようにわざと平坦な調子で言った。電話を切り、冷蔵庫を開け、冷たい水をグラスに注いだところで、携帯にメールが入った。かなちゃんからだったので折り返し電話をかけた。 「どうしてるのかな、と思って。美里、急に派遣先変えたでしょ。会社で何かあったの? 私、何か悪いことしちゃったのかな、と思って」  辞める前の二ヵ月ほどは、お昼を食べにも行かなかったし、ゆっくり話をしたのは、涼太とのけんかの原因になったあの女子飲みのときが最後だった。かなちゃんが自分のせいだと思い込んでいたなんて。とにかく誤解を解かなければ。 「そんな、かなちゃんのせいじゃないの。ごめんね、何も言わないで辞めちゃって。急に引っ越さなきゃならなくなって。あの、アパートの隣に新しく越してきた人が変な人だったの。職場も知られてたみたいだから変えてもらって、しばらく実家に帰ってたの」  変だったのは、隣の人ではなく、かなちゃんも知っている定食屋の涼太だけど、ことを荒立てたくなかった。実家に帰ることも考えていたので、あながち嘘ともいえない。 「変って?」  「なんか、仕事の帰りに待ち伏せされたりしたから怖くて」 「そうだったんだ。大変だったんだね。相談してくれればよかったのに。まだ実家でのんびりしてるんだ?」 「ううん、アパート見つけて引っ越した。新しい派遣先で働いてる」 「またいっしょにごはん食べようよ。場所は?」 「……中央区」  うかつに新しい職場を教えてしまっていいのかと思ったので、曖昧な答え方をした。 「もしかしてS&Rデータサービス?」  会社の名前を当てられた。 「……そうだけど、人には言わないでね」 「あそこ、雰囲気良さそうでいいなって思ってたの」  いつ会うというような、具体的な約束はせずに、電話を切った。  昼間に着信があった番号に掛けてみようかと思ったけれど、誰だかわからないし、用があればまたかけてくるだろうと思ってやめた。  美里は、Tシャツとコットンのショーツに着替え、洗顔料を使って化粧を落とした。テレビのリモコンを操作してスイッチを入れたけれど、乱れたグレーの画面しか映らない。アンテナに繋いでいないのだ。前の部屋に引っ越したときには、学生だったので大学の友達が、その前は上京してきたばかりだったので、父親がやってくれた。テレビを買ったときの説明書なんて引越しのどさくさでどこかに行ってしまったので、どうやってアンテナに繋いだらいいのか見当もつかない。着ていた服を洗濯機に入れ、スイッチを入れ、それからシャワーを浴びた。洗濯物を部屋干しし、髪を乾かした。携帯の電源をチャージする前に、まだ谷村は会社にいるのだろうかと思って、もう一度直通番号に電話をかけてみた。誰も応答しなかったので、美里は電話を切り、部屋の明かりを消した。
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