飼われる 10(猫を狩る 33)

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飼われる 10(猫を狩る 33)

10  定時で仕事を終え、アパートに戻った美里は、夕食の準備を始めた。米を洗い、炊飯器のスイッチを入れ、食材を取り出すために冷蔵庫を開けると、最後に谷村が来た時に買ったビールのロング缶が目に入る。ひとりでは飲みきれないので、ずっと残っているのだ。美里はため息をつき、少しずつ残っていた野菜と買ってきた鶏肉を取り出す。まとめて煮物にしてしまおうと思っていたのだ。台所の戸棚から、だしの素を探していると、玄関のブザーが鳴った。まさか涼太がやってきたのかと思いながらドアスコープを覗くと、疲れた顔をした谷村が立っていた。 「福島さん、元気そうでよかった。どうしてるかと思って」  谷村が疲れているのはいつものことだ。でも、いつもよりさらに精気がない。どうしているかと聞いているのに、目は美里を素通りして、部屋の空気を見ているようだ。こんなに魂が抜けたような谷村を見たのは、初めてだった。世界の王族がいっぺんに十人くらい死んでしまったのだろうか。どこかの国で皇女の盛大な結婚式があって、そこでテロが起こったとか。でも、そんなニュースは聞いていない。 「なんとか元気にしてます」 「それはよかった。突然来てごめん」  つき合っている振りはもう終わりなのかと、聞こうと思ったけれど、やめた。  「谷村さんが買ってきたビール、ひとりじゃ飲みきれないから飲んできます?」  断られるかと思った。テロの被害状況を把握して、一刻も早く家系図を書き換えなければならないのではないのか? 影みたいな足取りで、谷村は玄関を抜け、ダイニングテーブルのいつも座っていたほうの椅子に座る。美里は、一本だけ残っていたビールを冷蔵庫から取り出した。どきりとするほど冷たい。。谷村の横に立ち、プルトップを開けると、泡が勢いよく噴き出してきた。タンブラーに注ごうとすると、中身はみぞれ状に凍っている。 「谷村さんがずっと来ないから、凍っちゃった。冷たくて手が痛いです」  凍った缶に触れた指先は、冷たいのに熱く疼き、冗談めかして笑おうした頬がこわばる。ぎこちなく笑う谷村の目は、向こうが透けて見えそうなくらいに表情がない。赤くなった指先を庇うようにもう片方の手で包み、手の内を見透かされないように隠しても、指先の疼きはじんわりと、広がっていく。 「手は大丈夫?」   谷村の目の焦点がやっと合って、いつもの美里を気遣う表情になる。美里は両手を広げ、まだかすかに赤くなった指先を谷村に見せた。谷村の温かく乾いた両手が、美里の疼く指先を包む。 「大丈夫じゃないです」  谷村の目を覗き込む。気遣いに満ちた目をしている。谷村の手を思い切り引き寄せる。谷村は驚かないかわりに、透明な膜をかぶせたような目で美里を見る。谷村が椅子から立ち上がる。顔が近づいてきたので、目を閉じた。乾いた唇が触れ合う。谷村の腰に手を回したら、背を抱かれた。湿った舌が侵入してくる。谷村の携帯が鳴り始めた。逃げられないように、腕に力をこめた。携帯は鳴り続けている。美里の背を這っていた手がどけられ、谷村は美里から体を離した。胸ポケットを探り、携帯を操作すると、着信音は唐突に止んだ。谷村は携帯をテーブルに置き、美里はその手を捉え、ベッドルームに招き入れた。    目が覚めたのは、朝の四時だった。谷村は泊まっていくというので、ふたりとも美里のセミダブルのベッドで眠りについた。谷村は腕枕の腕もそのままの状態で、ベッドの片側で寝息を立てている。  ひそやかな交わりだった。想像していたとおり、谷村は丁寧に美里の体を扱い、静かに、でも躊躇(ためら)うことなく美里を満たした。何かに耐えるように眉間に皺を寄せ、かすかに息を弾ませてる谷村は、触れ合っていてもやはり遠くにいるようだった。あるいはこういうことには慣れているのかも知れないと思うと、谷村のことがますますわからなくなる。    果ててしまったあと谷村は、美里を抱き寄せ、背中や髪に指を滑らせた。言い訳めいたことは何ひとつ口にしなかった。シャワーを浴び、煮物を作り、すっかり解凍されてやや炭酸の抜けたビールを飲みながら食べた。谷村が、きれいに作ったものを平らげるのを見ながら、さっきまでのことを想像し、顔を火照らせた。食器を片付け、つき合っている振りをしていたときと同じように、ソファの形に折りたたんであるマットレスに並んで座って、映画を見た。歯を磨いてベッドに入り、もう一度静かに交わってから眠りについた。    水が低い所に流れるように、こうなったのは自然の成り行きだった。今まで、それほど好きではない人とのほうがうまく行くだろうとか、いつまでもつき合っている振りを続けていたいなどと思っていたのは、つい最近のことなのに、遠い昔のことのように思える。谷村を追いかけ回して、生活のすべてに割り込み、しがみつきたい。そんなことはできないことは、わかりすぎるほどわかっている。  一度目が覚めてしまってからは、眠れなくなった。  ここに来たときに、谷村がひどく落ち込んでいたのはなぜだったのか、急に気になりだした。何も聞かなかった。聞いても谷村は何も言わないだろうと思ったからだ。美里のことが好きで、とにかく駆けつけた、などということはないように思う。谷村の携帯は、何時間も電源を切られたまま、ダイニングテーブルの上に置かれている。  美里がベッドから起き上がると、谷村が寝返りを打った。起きる様子はない。谷村は、時間が来るとどんなに睡眠不足でも、アラームなしで起きるくせに、物音や気配では目を覚まさない。    谷村の携帯の電源を入れた。ロックはかけられていなかった。新しいメッセージが三通、差出人は郁子。これは未読なので見ないことにする。夕方にかかってきた電話は非通知だった。既読の一番新しいメッセージは、今日の午後六時ごろに届いたものだった。アカウント名はローマ字でsakiという女の名前らしきものと、番号の羅列だった。まさか美里の他にもつき合っている女がいるのだろうか。谷村に限ってそんなことはないような気がするけど、可能性はゼロではない。その女との間に何かがあって、美里のところに突然現れたのか?  谷村と、そのサキという女はいったいどういう関係なのか。考え出すと、いてもたってもいられなくなる。思い切ってそのメッセージをクリックした。  妻が浮気をしているという短いメッセージと画像。スクロールすると、上半身が裸の女の画像が出てきた。顔が映らないように体をよじっていて、水色の石がならんだ小さな十字架の形をしたペンダントをつけている。それほどショッキングな画像には見えなかったけれど、谷村がここに来たときの、魂が抜けたような様子を思い出すと、これは本当に谷村の妻の写真なのだろう。    谷村を振り回していたのは、世界の王族でも、美里でも、涼太でもなくて、妻だった。画像を目の当たりにするまで、飼われていることにすら気づかずにのうのうと生活している鯖白の親子のような妻子しか想像できなかったのに、あまりに当たり前すぎて、涙も笑いも出なかった。急に涼太にすまないことをしてしまったように思えてきた。谷村とふたりでドアの中に消えていく美里をどんな気持ちで見つめていたのだろう。  美里は谷村の携帯の電源を切り、テーブルの上に置いた。空のアルミ缶を握り締めると、大した力を加えてもいないのに薄っぺらい音を立てて潰れた。  ドアの外で涼太が息を潜めているような気がして、チェーンを外し、アパートのドアを開けてみたけれど、白々しい街灯に照らされた夜明け前の薄闇が広がっているだけだった。              (飼われる 了)
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