眠りから覚めると世界は 5(猫を狩る 53

1/1
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/61ページ

眠りから覚めると世界は 5(猫を狩る 53

5    裕二の瞳には何も映っていないのではないかと思うほど、無機質な視線を向けられた。裕二が見ているのは、郁子の後ろにある靴箱で、裕二の目は、見たくないものの像は結ばない仕組みになっているのだろう。 「福島さんって人が来てると思うんだけど」  靴箱に話しかけるように、裕二が言った。美里のことが心配で帰ってきたのか。息が苦しい。と思ったら、しばらく息をしていなかったことに気づく。思い切り息を吸って、吐いた。それを何度繰り返しても、ちゃんと空気が入ってこないような気がして、ますます苦しくなる。 「郁子ちゃん、大丈夫?」 「……大丈夫だから、私のことは放っといて」  裕二の目には、雅人も映っていないようだ。裕二は靴を脱ぎ、何事もなかったように寝室に向かう。 「待ってください」  雅人が裕二を呼び止める。できれば放っておいてほしい。変にかばってもらうほど、立場が悪くなる。でも、逃げたり、無視したりしないところがやっぱり雅人らしい。 「あの写真、気に入っていただけましたか?」  裕二は振り返り、雅人に向かって怒りと侮蔑の混じった視線を投げかける。そんな煽り方をしなくてもいいのに。 「雅人っていいます。初めまして。人妻を騙して写真や動画を撮ったり、えげつないことをさせて生計を立ててます」 「やめてってば……」 裕二は深いため息をつき、憐れむような目で郁子を見る。悪い男にたぶらかされた馬鹿な主婦というわかりやすい筋書きに収めようとしているのか。 「郁子のことが、もう、わからなくなった」  怒気の塊のようなものが一瞬にして、喉元からこめかみに迫り上がる。 「最初からわかろうともしてないくせに。私が何度帰ってきてほしいって言っても、迷惑そうにするだけで、話も聞いてくれないし、でも美里さんがいなくなったらすぐに探しに来るんだ」  裕二に向かって声を荒げたのは初めてだった。声も手も足も震えていた。小田と坂本が玄関先にやってきて、固唾(かたず)を飲んで成り行きを見守っている。せっかく仲直りできたと思ったのに、このことは明日にはマンション中に知れ渡ってまた誰にも口を利いてもらえなくなるのだろう。動画の制止ボタンを押されたように、誰もが動きをためて黙りこくっていた。    沈黙を破ったのは、玄関のブザーだった。三回立て続けに鳴り、続いてドアが乱暴に叩かれる。警察が葉月とその友達を連れてくることを忘れていた、でもそんなにすごい勢いでドアを叩かなくても、と思いながらドアスコープを覗いた。赤っぽく染めたまとめ髪に黒のワンピースを着た女がドアを叩いている。早紀だった。
/61ページ

最初のコメントを投稿しよう!