眠りから覚めると世界は 6(猫を狩る54)

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眠りから覚めると世界は 6(猫を狩る54)

6    サムターンを捻り、ドアを細めに開けると、外側から強い力でドアノブを引かれた。郁子は前のめりになってバランスを崩し、玄関の三和土(たたき)にしゃがみ込んだ。 「どういうことなのよ。葉月はどこなの? 家出するように(そそのか)したのはあんたなの? それとも誘拐したの。うちの娘を返して。警察を呼ぶわよ」  仁王立ちになった早紀に、早口で(まく)し立てられ、雅人に助け起こされた。 「警察ならもうすぐ来るから、落ち着いて。葉月ちゃんは元気だから、大丈夫。警察に捕まったらちゃんと家に帰れって言ったんだけど、よほど家に帰りたくないらしくって」 「ちょっとあんた、何なのよ。旦那なの? この女の正体は私がメールで教えてあげたわよね。とっとと追い出せばいいのに。それから人の娘を馴れ馴れしく葉月ちゃんなんて呼ばないでよ?」  早紀が雅人に食ってかかる。前にホテルオークラで会ったときもきれいだと思ったけど、今日は完璧なフルメイクで、もの凄い迫力がある。 「あの、早紀さん、近所の人に聞こえるから、中に入って。葉月さんは誘拐してないし、(そそのか)してもいないけど、今日のお昼ごろからうちに来てたの」  早紀は後ろ手でドアを閉めた。 「早紀さんですね。妻が浮気をしているって、密告のメールをなぜあなたが送ってきたのか説明してもらえませんか? それからそれがお宅のお嬢さんとどう関係があるんですか? そして、この雅人っていう妻の浮気相手は一体何者なのかも」  早紀が驚いたように、裕二と雅人を代わる代わる見比べる。 「ちょっとあんた……そこまで馬鹿だったとは思わなかったわ。不倫ブログウォッチャーのくせに、罠にかかって人妻ハメ撮りサイトの管理人と不倫? 面白すぎでしょ。それにあのクソみたいな写真は何なのよ。もっとすごいのを期待してたのに」  馬鹿なのは、よくわかっている。そして、やってきたのが雅人だったということも幸運としか言いようがない。 「だって、モデルを用意したからヌード写真を撮れとしか聞いてなかったし、陵辱とか緊縛は守備範囲外だし、郁子ちゃんは縛られてガタガタ震えてたし、ベストを尽くしたつもりなんだけどな」 「あの、谷村さん、何かトラブルに巻き込まれてるんじゃないかと思って、ずっと心配だったの。でも、谷村さんってあんまり自分のことを話さないから聞けなくて。お節介なのはわかってるんだけど」  ずっと黙って成り行きを見守っていた坂本が、おずおずと口を開いた。 「あら、猫のことで孤立してるんじゃなかったのね。よかったじゃない。いいお友達がいて。つきあってられないわ。さっさと娘を連れて帰りたいんだけど、どこにいるのよ」 「だから、警察が送ってくるって。さっきから人のことを散々毒づいてるけど、葉月ちゃんは、警察に保護されてまで頑として家には帰りたくないって言い張ってるんだぜ。ちょっとはその意味を考えたらどうなんだよ、なあ早紀ちゃん」  早紀ちゃんなんて馴れ馴れしく呼ぶな、という反応を予測した。でも、早紀は今までの勢いを失って呆然と立ち尽くしている。目尻で跳ね上がった黒いアイライナーとマスカラで強調された大きな目から見る見るうちに涙が零れ落ちた。 「ね、早紀さん、葉月さんすごくいい子だったよ。花梨の宿題も見てくれたし、お片付けも手伝ってくれて、ちゃんとしたお母さんに育てられたお嬢さんって思ったもの」  早紀が、何かを懸命に言おうとしている。でも、込み上げる嗚咽にかき消されて、聞き取れない。花梨がないている時にするように、背中をさすった。触るなと怒られるかと思ったけど、早紀はされるがままに嗚咽し続けた。坂本と小田が遠巻きに郁子と早紀を見守っている。 「お恥ずかしいところをお見せしちゃってごめんなさいね。もう遅いから今日のところは……」 「なに言ってんのよ谷村さん。私たち、ご主人の女が乗り込んできたって言うからその女の話を聞きに来たんじゃない」  小田はまったく勢いを失っていない。テニスラケットを持ってこなくて本当に良かったと思う。 「じゃあ、紅茶を淹れるわね」 「……ありがとう」  郁子の耳許で早紀が言った。か細く頼りなげな声だった。 
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