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眠りから覚めると世界は 7(猫を狩る 55)
7
台所で人数分の紅茶を淹れていると、マンションの前の通りに車が入って来る音が聞こえた。車は減速し、マンションの前で停止し、玄関のブザーが鳴った。慌てて玄関に走り、ドアスコープを覗くと、私服警官らしき男が立っていた。
「警察署のものです」
そう言われてドアを開けた。
「谷村郁子さんですね」
物腰は柔らかでも、値踏みするような鋭い視線で怪しい人間かどうかチェックされている気がする。早紀が玄関にやってきた。
「私が葉月の母親です。娘がご迷惑をおかけしました」
「親御さんなんですね。ふたりとも、何ひとつ喋ろうとしないんですが……」
「ふたりなんですね。娘の友人であればその子も連れて帰って、家族に連絡します」
「お名前を伺ってもいいですか?」
「島本早苗です」
早紀の本名は早苗というらしい。
「お子さんの名前は?」
「葉月です」
「わかりました。ではお子さんたちをお連れしますね。それから、後日、署の少年課にお子様といっしょにご足労いただけますか?」
「わかりました」
私服警官がトランシーバーに向かって二言三言喋ると、もうひとりの警官に連れられて、葉月とともに、痛々しいほどに痩せて片頬を腫らせた少女が現れた。杏という名前の子だ。短いスカートから伸びた脚は、大人の二の腕ぐらいの細さで、全世界の大人を憎んでいるような挑発的な目をしている。
「では、失礼いたします」
ふたりの私服警官が出て行ってしまうと、早苗が葉月の頬を思い切り張った。
「……ママ、ごめんなさい」
「葉月がママのことを嫌いなのは、よくわかってる。私も母のことが大嫌いだったから。でもね、葉月に厳しくしてるのは、ママみたいになってほしくないから。嫌うのは構わないけど、大人になるまでは言うことを聞いて家にいなさい」
早苗の迫力に気圧された。ついさっきまで葉月が家に帰りたがらないことを指摘されて大泣きしていたのに。
「最初は、ママがあたしのことなんて産まなきゃよかったって言ってるのを聞いて、あたしなんかいないほうがいいんだって思って、家を出たの。でも思い出すのはマオのことばっかりで、なんてひどいことをしたんだろうって思うたびにもう家に帰ってママに顔向けできないと思って……本当にごめんなさい」
葉月は顔を覆って声をあげて泣き始めた。
「そんな意味じゃなかったのよ。ママが葉月を妊娠したのは十九の時だった。何にもわからないままあの家に嫁いで……だから、葉月にはママみたいになってほしくなかった。マオのことは、葉月の問題だから一生背負って生きていくしかないと思う」
突然子供部屋のドアが開き、花梨が泣きながら部屋から出てきた。
「花梨、どうしたの? 怖い夢を見たの?」
郁子は、屈み込んで花梨を抱きしめ、背中を撫で、とんとんと軽く叩いた。これだけ家の中ががちゃがちゃしていたら、花梨が起きてしまうのも無理はない。葉月と杏が駆け寄ってくる。
「花梨ちゃんごめんね。うるさくて眠れなくなっちゃったね」
葉月の顔を見て、花梨の顔がほころぶ。
「うわあ、うちの弟みたいで可愛い。お話してあげよっか」
さっきまでの挑発的な様子とは打って変わって、杏が嬉しそうに目を輝かせている。
「谷村さん、あの、美里さんって人が谷村さんと話をしたいって言ってるんだけど……紅茶は私と小田さんで淹れといた」
坂本が玄関にやってきて、郁子に言った。
「女が乗り込んできてるのね。可哀そうとか、自分にも落ち度があるとか一切考えずに、きっちり締め上げるのよ。私も行くわ」
早苗はダブル不倫の末に離婚して再婚したと言っていた。
「全然そういう感じの人じゃないの」
「そういう感じじゃない女が、しれっと妊娠したとか言ってくるのよ。本当に何もわかってないわね。葉月はここでちょっと待ってて」
「あたしも行く」
「大人の話だから」
「その、大人の話に一番とばっちりを受けたのはあたしなんだけど。自分の今の名前だってどっちだかわからないし」
「じゃあ葉月もいらっしゃい」
正直、葉月に話を聞かれたくはなかった。でも、こういうことで最終的に一番傷つくのは子供だってことはよくわかっている。
「あたしは関係ないから、花梨ちゃんにお話してあげてていいですよね。今までに読んだ絵本、ほとんど暗記してるんです」
下の兄弟がいる子なのだろう。杏はすごく子供慣れしている。
「弟さんか妹さんがいるの?」
「ちょうど花梨ちゃんぐらいの歳の弟がいました」
「ありがとう。花梨、杏さんがお話してくれるって」
弟がいる、ではなく弟がいたと、過去形だったのが少しだけ気になったけど、家出して居候先を渡り歩いているくらいだから、杏にも何かしらの事情があるのだろう。杏と花梨は手を繋いで子供部屋に入っていった。
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