眠りから覚めると世界は 8(猫を狩る 56)

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眠りから覚めると世界は 8(猫を狩る 56)

8    美里は起きていて、三人掛けのソファの端に座っている。手には相変わらず猫じゃらしが握られている。ねねはこの時間には、花梨の部屋で眠っているので、残念ながらねねと遊べる可能性はあまりない。アームレストの脇には裕二が、片膝をついて(ひざまず)いている。早苗ほど怒り狂ってはいないけど、さすがにそういう姫と執事みたいなシーンを目の当たりにすると、苛立ちが込み上げてくる。ひとりがけのソファには小田と坂本が座り、雅人はテレビに背を向けて、三人掛けソファの正面であぐらをかいている。 「雅人さーん、無事戻ってきたよ」  葉月が雅人に走り寄り、隣に座り、早苗が雅人を鋭く一瞥する。 「葉月ちゃん、今度こそちゃんと家に帰れよ」 「わかったよ」 「郁子さん、ここに座ってください」  美里がソファの真ん中あたりに移動し、裕二の横に郁子を座らせようとする。 「美里さん、動かなくていいからそこに座ってて」  郁子は美里の横に座り、元の位置に戻るように促し、早苗の場所を空けた。早苗を美里の隣に座らせたら、頬を張ったりしないか心配だったのだ。 「郁子さん、急に押しかけちゃってごめんなさい。でも私、谷村さんが落ち込んでるのを見ていられなくって。だから谷村さんに謝って、家に帰るように言ってください。ちゃんとお二人が元に戻るまでは、私がちゃんと側にいて見守ってますから」  やっぱり美里の思考回路は、ちょっとどころかかなり変わっている。 「ちょっと……その、側にいてあげるってどういうこと? それが問題なんだってことがわかってないの?」  小田がさっそく突っ込みを入れる。 「でも、郁子さんが先に浮気したんですよね」  それは違う。証拠を集めたり、問い詰めたことはないけど、随分前から、裕二の帰りは遅く、家にいても、郁子の言うことにはまったく関心を示さなくなっていた。 「あの写真は、私が脅して撮らせたものなの。もっとえげつないのを撮ってもらうはずだったけど、この人、詰めが甘くて」  早苗が、美里の質問に答えた。 「脅したって、どういうことなんですか? 私のところにも谷村さんの写真が送られてきて、最初はマンションの人たちに嫌がらせをされてるんだと思ってたんだけど」  坂本のところにまで、写真を送られていたんだった。 「余計なことに首を突っ込んで、仕返しされたの。だから、ただの自業自得。猫を外に出してたことでこのマンションで孤立して、花梨も苛められて登園拒否しちゃって、小学校は越境入学させたら毎日徒歩で送り迎えしなきゃならなくなって……今は途中まで車で行ってるけど。だからネットで憂さ晴らししてたら、報復されたの。それから雅人くんとは時々会ってた」 早苗には自分の落ち度は気にするなと言われたけど、ここで保身に走ったら自分が自分を信用できなくなる。 「じゃあやっぱり先に浮気したのは郁子さんなんですね。谷村さんは、私が元彼にストーカーされてたのを助けてくれて、つき合ってる振りをしてくれてたんです。家にも泊まってもらってたけど、別の部屋で寝泊まりしてました。でも、あの写真が送られてきた日に、どうしても谷村さんのことを放っておけなくなって……」  不貞行為のことを言っているのはわかる。どちらが先に別の相手とセックスしたかというより、どちらが先に相手に向き合うことを放棄したかということの方が重要な気がするけれど、それは問題にされないのか。 「ちょっと待てよ。どっちが先かって問題じゃないだろ。さっき俺のこと無視しましたよね。たしかに俺は存在している価値すらないような男だけど、自分の妻がそんな奴を旦那より頼りにしてるって事実を認めたほうがいいですよ。郁子ちゃんはこんなふうにそこにいない人みたいに扱われてたんだって思ったら、郁子ちゃんの気持ちが痛いほどわかりました」  雅人は、恐ろしいくらいに人が考えていることを的確に察知する。 「あの、無視したわけじゃなくて、どう対応していいかわからなくて。郁子は、家のこともちゃんとやってくれるし、子供のことも安心して任せられたし、放っておいても大丈夫だと思っていたことは否定しません。福島は僕の部下で、ストーカー被害に遭っていたことの方が、ご近所の人間関係や猫がいなくなったことよりはるかに危険度が高いし、何かあったら業務にも支障が出ます。遅くまで残業させていたのも原因なので、責任を感じたんです。郁子のあの写真のことで、今までの信用が一気に崩れました。だって結婚は信用じゃないですか。他の人がどう考えているかはわかりませんが、少なくとも僕はそう考えます」  家庭を安心して任せられるというのなら、それは妻というより管理人のようなものなのか。 「谷村さんは郁子さんを愛しているからじゃなくて、信用を裏切られたから落ち込んでたんですか?」  美里が裕二に聞いた。 「そういうことだと思う。でも、どこまでが信用でどこからが愛情か、線を引いて分けることはできないし、する必要もないと思うけど」 「それを聞いて、ちょっとがっかりしました。でも、ここでお話できてよかったです。私は、好きな人がつらい思いをしていたら側にいてあげたいと思ってたけど、谷村さんは、そうじゃなかったんですね。奥さんは、つらくてもひとりでがんばらないといけなかったんですね。今までありがとうございました。私、帰ります」 「福島さん、送っていくよ」 「大丈夫です。タクシーで帰りますから」  裕二は、美里に見切りをつけられたようだ。申し訳ないことをしてしまったような気分になるのはなぜなのか、自分でもよくわからない。美里は猫じゃらしを置き、家を出ていった。
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