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輝板(タペタム)5(猫を狩る 22)
5
最初は素っ気なかった坂本とも、ふたりで鬼コーチのしごきに耐えているうちに、なんとなく打ち解けるようになった。木曜日のレッスンのあと、あまりに喉が渇いていたので、テニスコートの向かいにある自動販売機で飲み物を買おうとしていたら、全部売切れになっていた。この暑いのに、全部売り切れなんていったいどういうことなんだと思って踵を返すと、ちょうど坂本が歩いてくるところだった。
「なんか、売切れみたいです」
「ちょっと、ひどいじゃないの」
それから、お茶を飲んで帰ろうということになり、幹線沿いのファミレスに行った。
「えっと、小田さんでしたっけ」
ドリンクバーでアイスティーをグラスに注いでいると、坂本が名前を聞かれたので、そうですと答えた。てっきり郁子から名前を聞いていて、相当に憎まれていると思ったのに、そういうわけでもなさそうだ。
「井口さんもちゃんと打てる人が入ってきて教え甲斐があるって喜んでた。あの人ね、高校でもコーチをやってて、県大会出場まで行ったんだったかしら? もっとちゃんとしたスクールでお金とって教えればいいのにって言っても、自分はプロテストにも受かったことがないし、趣味で続けているだけですからって。けっこうなお年なのにお元気よね」
裏がなくて、つき合いやすそうだ。座に戻って、テニスサークルの話を黙って聞いた。坂本は、平日の夕方などもコートを借りてテニスをしているようだ。井口さんに習っていたら、悪い癖が抜けて上達したので、続けて通っているけれど、上手い人とは、休日か、平日の夕方にしかプレイできないようだ。
「ところで、小田さんのマンションってペットを飼うことは禁止されているんですか?」
突然、ペットの話に水を向けられた。
「禁止ではないです」
「あの、猫はだめとか」
「大丈夫なはずです」
郁子のほかにも猫を飼っている住人はたくさんいる。砂場の件で郁子がつるし上げを食らったのは、桃実が不用意に、花梨ちゃんの家では猫を飼っていると岸田のいるところで口を滑らせたからだった。
「そうなんだ」
坂本は、一瞬視線を泳がせると、アイスコーヒーのグラスに挿したストローをくわえた。
「谷村さんから、何か聞いたんですか?」
「何かって? うん、猫嫌いな人が多いって聞いたけどそれ以上は何も」
坂本は、テーブルの上の紙ナプキンを一枚とって、口元とストローについた口紅を拭った。つくづく、嘘をつくのが下手な人なんだと思う。
「猫って、犬と違って外で何をしているかわからないじゃないですか。だから管理しきれないところはありますよね」
人に迷惑をかけていてもわからないとうっかり言いそうになったけれど、咄嗟に表現を和らげた。
「そうなのよ。前にうちで飼ってた猫も、車に轢かれて死んじゃった。今の猫は外には出さないようにしてるけど」
ふと、中央分離帯に投げ出された死んだ猫のことを思い出した。
「それって、最近ですか?」
「ううん、一年ぐらい前のこと」
あの猫は坂本家の猫ではなかったので少しほっとする。
「猫ってなんであんなに簡単に車に轢かれちゃうんですかね。夜行性で夜もよく目が見えるんだから、車ぐらいよけられそうなものだけど」
坂本は、少し困ったような目で由香里のことを見る。そんなことも知らないのか、とでも言いたいのだろうか。猫のことなんか、知らない。岸田ほど忌み嫌っているわけではないけれど、特に好きではない。余裕しゃくしゃくに塀の上を歩きながら何もかも見透かしたような目で見下ろされるのが、どうも苦手なのだ。
「猫の目には輝板っていう光を反射する部分があって、つまり目に入ってくる光と、輝板が反射する光と、二重の明るさでものを見ることができるんですよ。だから、暗い夜道でいきなり車のヘッドライトに照らされると、明るすぎて目が眩んでしまうらしいんです。それから、びっくりすると動けなくなってしまうとか、トラブルに突進していく性質があるとか、後ずさりができないとか、いろいろ言われてますけど、なぜなんでしょうね。猫って、器用だし、知恵も働くし、冷静なのにね。でも臆病だからやっぱり竦んで動けなくなっちゃうのかもしれないですね」
「そうなんですか。臆病には見えませんけどね。何するにもマイペースって感じで、恐いものなんかないように見えますけどね。飼い主を見下してるみたいで」
「まあ、そう見えますよね。でも、それもやっぱり臆病だから距離を置いているような態度を取るんじゃないのかしら?」
「そういうものですかね」
「ああ、すみません。猫がお好きでもないのに、猫の話ばっかりで」
「別に嫌いってわけでもないんです」
郁子のことについて、もう少し探りを入れてみようと思ったけれど、やはり猫嫌いのマンションの住人と認識されているようなので、郁子の話を出すのはやめた。
「ところで、花梨ちゃんって幼稚園で何かあったとかって、谷村さんから聞いてます?」
坂本の方から、話を振られてしまった。
「幼稚園が合わなくて、小学校は越境入学させてみたいですね。その幼稚園の子、ほとんど同じ小学校に上がるので」
「そうだったんですか」
と言う坂本の表情は硬いままだった。納得していないのだろう。
「谷村さんって、最近仕事でも始めたんですか? けっこうきちんとした格好で出かけていくところをよく見るので」
郁子の話が出たのでついでに水を向けてみる。
「仕事ではないと思います。詳しくは知らないけど、インターネットを介した趣味のサークルみたいなものに参加しているらしくて」
そんなことを聞いたのは初めてだった。やはり郁子はマンションのややこしい人間関係のことなどものともせず、気楽にやっているのだ。仲たがいしたことを気に病んだり、岸田に対して悪口を言わないように気を使っていたことが馬鹿馬鹿しくなる。時計を見ると、そろそろ陸也が帰って来る時間だった。
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