輝板(タペタム)6(猫を狩る 23)

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輝板(タペタム)6(猫を狩る 23)

6  せっかく楽しめるようになってきたテニスも、花梨が学校でもらってきた夏風邪によって、一週間休むことになってしまった。高熱が出て、嘔吐する風邪が流行っているようで、ただでさえ食の細い花梨は、すりおろしたりんごと、スポーツドリンクしか受け付けない。それも少量ずつにしないと、すぐに戻してしまうので、何度か小児科に連れて行った。治ったころには陸也の番が回ってくると思うと、ため息が出る。  ひと月に一回開かれるテニスサークルの総会の誘いが来たけれど、そういう事情だったので断った。日曜日に一日かけてダブルスのトーナメント試合をして、そのあとは懇親会になるらしい。達也には、子どもたちのことは気にしないで行って来いと言われたけれど、具合の悪い花梨を達也に任せておくのは不安だった。  坂本から電話がかかってきたのは、総会の前日である土曜の朝だった。そういえば、サークルの代表者に欠席することは伝えてあったけれど、坂本には何も言っていなかった。 「小田さんに、折り入って話したいことがあるの。お時間取れるかしら」  電話に出るなり、緊張したような声で尋ねられた。 「ごめんなさい。私、明日の総会には行けないの。花梨が風邪を引いちゃってて」 「ああ、テニスサークルとは関係ないことなの。いつなら出て来れるかしら?」 「どうせ家にいるから、来てもらってもいいですけど」 「小田さんのところに伺うのはできれば、やめておきたいの」  明日は坂本は一日出かけているのだろうし、今日は達也が家にいるはずだ。明日一日、子どもたちの面倒を見てくれる気になっていたのだから、ひとりで買い物に出かけて、少しの間坂本に会うぐらいの時間はあるだろう。 「今日の午後でよければ」 「わかったわ」  午後二時に先週行ったファミレスで、坂本と会うことにした。 「単刀直入に言うけど、いい加減に谷村さんへの嫌がらせは、やめたらどうなんですか? あのマンションはペット禁止でも猫禁止でもないんですよね。そんなことで仲間はずれにしたり、子どもまで使って苛められるように仕向けたり、その上よくもこんなに卑劣な手を使って、こんな写真を送りつけてくるなんて」  先に到着して由香里を待っていた坂本は、由香里が席に着くなり興奮した様子でまくし立てた。嫌がらせ、と郁子が思っているのなら、たしかにそうなのかもしれない。岸田を含めた公園利用者で、計画を立て、郁子の猫を捕まえて保健所に連れて行こうとしたけれど、猫を見つけたのは夜になってからで、捕まえても、誰も翌日まで猫を預かりたがらなかったので、結局逃がした。子どもまで使って、幼稚園で苛められるように仕向けるとか、写真を送りつけるというのが、いったいなんのことなのだか、わからない。 「嫌がらせって、近所の人たちで猫のことを注意したときのことなのかしら? 谷村さんが猫を飼っていることを快く思わない人がいるのも事実だけど、言われたら言い返せばいいのに、あの人、マンションで孤立しちゃってもしれっとしてるから。別に私たちとつき合わなくても痛くも痒くもなさそうだし、そのうちに子どもをさっさと越境させて、学区外の学校に通わせてるし。あの学校は、ちょっと前に何かのモデル校だったらしくて、クラスの人数も少ないし、評判のいい先生ばかりを集めているらしいじゃない。それに、幼稚園で苛められるように仕向けるってどういうことなのかしら?」  思ったことを率直に述べたつもりだったが、岸田との間で交わされた郁子についての会話には触れなかった。口に出して喋ってみたら、郁子に対しては、親しくなりたいのに距離を置かれて逆切れしているみたいだった。そんなつもりはなかったけれど、馬鹿にされているように感じていたのは事実だった。 「花梨ちゃんのこと。あの子って女の子らしい遊びが苦手でしょ。男の子とばっかり遊んでたら、桃実ちゃんに『サカリがついてるから、ママが花梨ちゃんと遊んじゃだめ』って言われたらしいの。それから、花梨ちゃんは猫の黴菌を持っているってことにされて幼稚園に行きたがらなくなったって、聞きました」  桃実がいるところで、小田とそんなことを話し蛸とはあった。それが原因で、花梨が幼稚園に行けなくなったなんて、知らなかった。 「そうだったんですか。それが花梨ちゃんを越境入学させた理由だったんですね。谷村さんは私には何も言ってくれなかった。直接言ってくれれば、その場で桃実を叱ったのに」  体から力が抜けてくようだった。 「でも、写真っていったい何のことなんですか?」  坂本が、困惑したように由香里の顔を見る。 「本当に知らないんですか?」 「知らないわ」 「じゃあ、誰がこんなことをするのかしら? なんだか気味が悪い。ていうか、谷村さんは何かとんでもないことに巻き込まれているような気がする」 「何の写真なの? とんでもないことって?」   坂本は何かを言いかけて言いよどむ。 「私はてっきり、マンションのみんなで寄ってたかってひどい写真を撮って谷村さんを脅したりしていたのか、あるいは、谷村さんって実は過去にモデルか何かをしてて、そのときの写真をどこかで見つけて、谷村さんの知り合いにばら撒いているのかと思ったんです」 「ひどい写真って?」 「顔は映ってないけど、裸の写真なんです。でも髪型とか、いつもつけているアクセサリーとかでわかるの。あれは谷村さんだって。ねえ、本当に何も知らないの?」  写真のことは知らない。でも、猫のことでマンションの住人から孤立してしまってから、郁子は、岸田に怪しいバイトと誤解されるような外出をするようになった。  写真を誰にも見せないことを約束し、坂本の携帯に送られてきた画像を見せてもらった。上半身をよじって、顔が映らないようにしてある上半身だけのヌード写真だった。郁子がいつもつけている水色の石のはいった銀色のクロスが映りこんでいる。どこから見ても郁子の写真だった。  画像は何枚かあるのかと思って、画面をスクロールした。前の画像をひと目見て、絶叫しそうになった。うつろな眼を見開いた白い猫の写真だった。お腹のあたりの毛は、赤黒い血で固まっていて、アスファルトは黒く濡れている。 「坂本さん、これも何かの嫌がらせなの?」 「この写真は関係ないの。ごめんなさい。この子はバニラっていう、事故で死んじゃった猫。現場写真を撮っておけば犯人が捕まるかと思って撮ったんだけど、何の役にも立たなかった。送られてきた谷村さんの写真は一枚だけ」  猫の目には輝板(タペタム)という光を反射する部分があって、二重の明るさでものを見ることができる。暗い夜道でいきなりヘッドライトに照らされると、目が眩んで体が竦んでしまい、車に轢かれてしまう。  坂本にこんな写真が送られてくるようなトラブルを避けることができずに、巻き込まれてしまったのだろうか。由香里が手を差し伸べてやらなかったせいなのか。郁子は由香里なんかに頼らなくても、上手くやっているのだと思っていた。  いくら考えても、あの時どうすればよかったのか、これからどうしたらよいのか、わからなくて、目に浮かぶのは、輝板によって二重に増幅された光に眩んで走ってくる車を避けることもできずに立ち竦む頼りないくらいに小さな猫の姿だけだった。                            (輝板 了)
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