飼われる 2(猫を狩る 25)

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飼われる 2(猫を狩る 25)

2 十時を回っているといっても、快速や急行の電車は相当混雑している。快速に乗って、途中で各駅停車に乗り換えるより、最初から各駅に乗ってしまったほうが楽なので何本か電車を見送った。お金もないのに引っ越したので、都心に出る利便性には目をつぶった。築十五年と、それほど新しくはないけれど、ピンクの壁と白い窓枠の、若い女性に受けることを必死に考えて作ったようなアパートだった。名前が、かーさ・べるで、いうひらがなであることと、ピンクに塗られているのに、緑の城という意味であること以外は気に入っていた。  メッセージの着信音が鳴った。   ――美里、元気? どうしてる?――    ディスプレイには石田香奈子という文字が表示されている。前の会社で一緒に働いていたかなちゃんだった。香奈ちゃんも同じ派遣会社に登録していた。お昼にはよくいっしょに出かけたけれど、個人的なつき合いはほとんどなかった。 ――元気だよ。かなちゃん久しぶり――    かなちゃんといっしょに、前の会社の近くにあった定食屋さんによく行った。頼めばごはんを小さなお茶碗に半分ぐらいにしてくれて、野菜のおかずが二品はついてくるのに、値段も安くて、お昼には女性たちでいっぱいになる店だった。 ――急に派遣先変えたから、どうしたのかと思って。電話していい?―― ――今まだ電車の中だから、家に着いたら電話するね――    携帯をバッグにしまい、美里は電車の窓に映る疲れ切った自分の顔を見た。    涼太は、その定食屋さんで働いていた。お店の雰囲気に似合う細面の顔をしていて、食物アレルギーのあるかなちゃんのやや面倒な注文も、ひとつも間違えることなく、てきぱきとこなす、感じのよい店員だった。週に二、三日通っていたので、行けば涼太がこっちを見ているような気がしてはいたけれど、なにしろ女性客と回転で持っているような店なので、女性客のほとんどが涼太を気に入っていているように見えた。三十代後半に見える女の人のグループは、いつも親しげに涼太と話をしている。それに涼太の少しはれぼったい一重まぶたの目で見られると、そうでなくても熱い視線を注がれているような気になってしまうのだ。    会社の帰りに、駅の改札の手前でばったり涼太に会い、少しの間立ち話をすることが続いた。何度目かに会ったときに、お茶でもということになり、連絡先を交換した。そのうちに食事をしたり、映画を見に行くようになり、初めて美里を見た時に一目惚れしたのだと涼太に告られ、つき合うようになった。美里には彼氏もいなかったし、定食屋のアルバイトというところがちょっと引っかかったけれども、よく話を聞くと、それなりの大学を出て、小さな映像プロダクションに入り、映像作家を目指したものの、その会社がつぶれてしまい、バイトをしながら、仕事を探しているとのことだった。実際に時々撮影の仕事が入るようだった。     涼太とつき合うようになってから、程なくして涼太は定食屋のバイトをやめた。映像制作の仕事との掛け持ちが大変で、美里と会う時間が取れないというのが理由だった。涼太とは毎日のように会っていて、会う時間がないなどという不満を言ったことなどなかったのに、そのときはおかしいなんて思わず、美里のことをそんなにも大切に考えてくれる涼太を愛しくさえ思った。もともと、週末は美里の家にいることがほとんどだった涼太は、平日も家に帰らずに美里の家に入り浸るようになった。料理が好きで、献身的に世話を焼いてくれるのは悪くないと思ったけれど、いったいいつ映像制作の仕事をしているのかわからなかった。会社の飲み会があって遅くなったときに、涼太は心配して居酒屋の近くまで迎えに来てくれた。ただの飲み会だったのに、会社の男の人としゃべっていたというだけで、仲を疑われ、携帯の連絡先をすべて消去させられた。それでも、ちょっと行き過ぎたところはあるけれど、純粋な人なのだと思っていた。その飲み会のあと、涼太はお昼休みにはお弁当を持って会社までやってきて、それから美里の仕事が終わるまで時間を潰し、帰りに会社まで毎日迎えに来るようになった。会社の人に見られるのが恥ずかしいので、会社から少しはなれた公園で待ち合わせするようにはしていたけれど、そこまでしてくれて嬉しいと思う反面、同僚と気軽にランチに出たりできないのが疎ましくもあった。    涼太が映像制作の海外ボランティアとして南米に行くかもしれないという話を持ってきたときに、美里は反対した。どうしても行きたいのならば、涼太の好きにすればいいと思ってはいたけれど、美里の行動をこんなに束縛するくらいなのだから、とりあえず最初に少しぐらい涼太がいなくなったら淋しい、というような素振りを見せなければ、と思ったからだ。美里の生活には涼太以外の人間が入り込む余地なんてなく、涼太がいなくなったら淋しくなるという気持ちに嘘はなかった。涼太は美里の希望を聞き入れ、南米に行くのをやめてくれた。  しかし、そんな生活は長くは続かなかった。派遣の子の送別会があって、誘われるままに二次会、三次会とはしごして、終電を逃した。女子だけの会だったので、ただ単純に、みんなで集まって飲んで他愛のないことをしゃべるのが楽しかったのだ。かなちゃんの家が会社から一番近かったので、最後まで残った三人で、かなちゃんの家に泊まった。涼太には電話をしそびれた。  かなちゃんを含む会社の同僚には、涼太とつき合っていることは内緒にしていた。なんとなく気恥ずかしかったのと、もし、かなちゃんも涼太のことを好きだったら面倒なことになると思っていたからだ。それに、そこまでの仲良しではなく、香奈ちゃんに彼氏がいるかどうかすら知らなかった。涼太に電話しているのがばれたら、すべて喋らされると思って、電話できなかったのだ。それに、女子だけの飲みだと言ってあったので、涼太が心配したり浮気を疑ったりすることもないだろうと安心していた。    翌朝、家に帰ると、涼太は一睡もしないで美里を待っていた。涼太には、男といっしょだったと決め付けられて、その男と話をさせろと詰め寄られた。女の子といっしょだったと言うと、昨日いっしょにいた子全員と話しをさせろと言われた。当然断った。ただでさえ、つき合いが悪いのに、そんなことをされたら、同僚全員に嫌われて会社での居場所がなくなってしまう。涼太は、延々と美里を怒鳴りつけると、黙って美里のアパートを出て行った。翌朝、涼太は運送会社のライトバンに乗って戻ってきた。唖然としている美里に小さな花束を渡し、手際よく荷物を運び入れ、それが終わると台所で料理を始めた。涼太が作ってくれたビーフシチューは美味しかった。後片付けを済ませると、美里名義の消費者金融のカードを見せられ、五十万円の借金があるから払っておくようにと言われた。たしか、何かの会員証を作りたいと言われて、免許証を貸したことはあったけれど、消費者金融のカードを作るなんて聞いてなかった。お金は美里のために食事を作る材料を買ったり、美里を会社まで迎えに行く交通費に消えたという。美里のために、定食屋のバイトも、南米に行くのもやめ、人生を台無しにされたのだから、そのくらいは払って当たり前だというのが、涼太の持論だった。なけなしの貯金から五十万を返済し、カードには鋏を入れて捨てた。それから、涼太と別れることを考え始めた。ことあるごとに美里に人生を台無しにされたことを大声で責められるようになった。契約更新の時期まで待って派遣先を替えてもらい、涼太に黙って引っ越しし、やっと新しい派遣先に慣れてきたところだった。
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