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迷子の仔猫たち 15(最終回)(猫を狩る 48)
15
車は減速し、二階建てのアパートの脇の砂利を敷いただけの駐車場に入る。アパートは通りからも並んだドアが見えるつくりになっていて、ほっとした。
車を降りると、助手席にいた大男にがっちりと腰に手を回され、アパートの外階段を上がった。後ろを振り向くと、杏と車を運転していた男と並んで歩いている。杏は逃げるとは思われていないのだろう。車を運転していた男は、ホストっぽい雰囲気のイケメンで、杏が超当たりと言っていたのもわかる気がした。階段を上がりきったところから通りを見下ろすと、少し離れたところに白のセダンが停まっている。
二階の端の部屋の前まで来ると、男がドアを開けた。同時に、煙草と生臭さが混じったような臭いが鼻をつく。キッチンのシンクにはカップラーメンや弁当の空き容器が雑然と積み重なっていて、つけっぱなしのテレビからは、空虚な笑い声が聞こえている。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「葉月です」
「可愛いね。いい子にしてれば怖くないからね」
杏とホスト風の男が入ってきて、ドアにチェーンをかけ、杏が生気の抜けたような様子でテレビの前に座り込む。大柄な男が居間の突き当たりのドアを開ける。中はダブルベッドの置いてある寝室だった。
「ひとりずつとふたりいっぺんと、どっちがいい?」
杏はテレビの画面から目を離さない。助けてというメッセージを真に受けてこんなところまで来てしまったことを、葉月は心の底から後悔した。
「どっちでもいいです。あの、トイレに行ってもいいですか?」
時間を稼がなければ。トイレから出ると、居間には杏しかいなかったので、音を立てないように細心の注意を払ってドアのチェーンを外した。寝室に戻り、男に促されてベッドに座る。
「動画撮っちゃおうか?」
部屋の四隅には撮影用と思われるライトスタンドがあり、そのうちのいくつかが点灯され、ホスト風の男にカメラを向けられる。
「葉月ちゃん、いくつ?」
「本当の歳、言っちゃっていいんですか?」
時間を稼がなければ。
「音声なんて編集でどうにでもなるから、何でもいいよ」
「あの、十五歳です。もうすぐ十六になります」
「初体験は?」
「そんな……恥ずかしくて言えませーん」
葉月は顔を覆って俯いた。とにかく、くだらないことにいちいち反応して、時間を稼ぐのだ。ベッドの脇の窓に人影が映る。警察か。でもアパートの住人かも知れない。いや、一番端の部屋の窓の前を他の住人が通るはずがない。と思った瞬間に、ノックの音がした。
「ちっ、邪魔しやがって」
ふたりの男が部屋を出たあと、葉月も忍び足で居間に戻った。
「警察です。開けてください」
ドアが開けられる。と同時に叫んだ、
「助けて!」
大声で叫んだつもりだった。実際は何かがのどに貼りついたように、上ずった声しか出なかった。制服姿の警官が走り込んできて葉月と杏の背中を庇うように身柄を確保した。
「家出中の未成年だね。署まで来てくれるかな」
葉月は頷いた。何とか杏を助けることができて、体中の力が抜ける。
「ちょっと待ってくださいよ。何かの嫌がらせですか? その子たち、友達なんですけど、未成年とトランプして遊んでも逮捕されるんですかね? ていうか令状あるんですか? 弁護士呼びますよ」
大柄な男が言った。警察がらみのトラブルには慣れているようだ。
「失礼いたしました。署まで来ていただくのは保護が必要な未成年の方だけでけっこうです。このアパートの周辺は物騒なようなので、パトロールを強化しておくだけにします」
杏の証言で、逮捕できるだけの証拠が揃うまで見張っておくということか。
「恩にきますぜ、おまわりさん。せいぜい、その子を無事に家に帰してやってくださいよ。どうしても遊びに来たいっていうから、今迎えに行ったばかりなんですよ。でも、帰りたいのは葉月ちゃんだけだよな、杏は警察になんて行かねえよな」
「……うん、あたしはここに残る」
「杏、ひどいよ。家出したばっかりのときに、優しくしてくれたから、絶対に助けなきゃって思っていろんな人を巻き込んで必死になってここまで来たのにひどすぎる。ねえ、こいつらに何されたの? なんで顔を腫らしてるの? 歯だって虫歯なんて嘘でしょ?」
杏は無表情のまま、虚空を睨みつけている。
「ごめん葉月。助けに来てくれてありがとう。こいつらに何されたか言えばいいんだよね。会ってすぐこのアパートに連れていかれて動画を撮られて、十人のお客を取らされました。出ていきたいから稼いだお金をくれって言ったらふたりがかりでお腹を殴られて吐いて、顔を殴られて歯を折られて、友達を連れて来いって言われました。これでいいですか?」
そう言い終わると、杏は警官を振り切り、窓に向かって走り出した。窓を開け、ベランダの手すりによじ登ろうとしているところを警官に取り押さえられ、諦めたように大人しくなった。
それから、杏とふたりでパトカーに乗せられた。ふたりの男たちは、家の中を調べた後に警察署で取り調べを受けるらしい。
警察署に着くと、葉月は、中年の男の刑事に促され、机ひとつと椅子が数脚あるだけの部屋に入った。取調室というのだろうか。杏と一緒にではなく個別に話を聞かれるようだ。
「名前は?」
「わかりません」
葉月は自分の本当の名前を知らない。両親が離婚した際に、葉月の苗字は父方の姓から、母方の姓に変えられた。それから半年ほどあとに、ママの姓は直之のものに変わったので、葉月の苗字は、元の名字に戻すことになった。でもその手続きが終わったという話は聞かされていない。それはママにとってはどうでもいいことだったのだろう。
「わからないわけないよね、自分の名前」
「本当にわからないんです」
刑事がため息をつく。
「家はどこ?」
「わかりません」
どこに帰ればいいのか、わからない。家に帰る資格なんてない。
「ほら、迷子の仔猫ちゃんじゃないんだから、ちゃんと言ってくれないと」
葉月は俯いて、途方に暮れる。犬のおまわりさんに保護された迷子の仔猫たちは、おうちがどこだかわからない。
(迷子の仔猫たち 了)
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