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眠りから覚めると世界は 9(猫を狩る 57)
9
「追いかけないの?」
「いや、これでいいんだ。福島さんには申し訳ないことをしたって、ずっと思ってたから」
美里に否定された、というより美里に郁子への態度を否定されたことが相当堪えているようだ。
「でも、郁子ひとりだけに何もかも押しつけてつらい思いをさせてるって言われたのは心外だったな。誰かが仕事をしてお金を稼がないと生活できないから、毎日嫌でも仕事に行って、生活費もちゃんと渡してるだろ。疲れて帰ってきてまで、愚痴みたいな話は聞きたくないんだ。仕事をやめて家のことを手伝ったり、話を聞いてほしいんなら、もちろんそうするけど」
「仕事が忙しいのはわかってるし、家事のことで文句を言ったことはないよね」
収入のことを言われたら、何も言い返せない。それをわかって言っているのが頭にくる。正論に聞こえるけど、論点が巧妙にずらされていて、そしてどこまで行っても着地点がない。仕事をやめないと郁子の話を聞く時間がないというのは極論だし、いくら仕事が忙しいとはいえ、美里とつき合っている振りをする時間はあって、家に帰って数分でも郁子と言葉を交わす時間ぐらいは作れたはずだ。結局のところ時間がないというのは、優先順位が低いと言われているのと同じことだ。
「細切れの時間しか取れなくて、働けないのを知っててそういうこと言うんだ。もう好きにして。帰ってこなくても気にしないから」
「そうさせてもらう。じゃあこれで話は終わり。皆さん、お帰りいただけますか。なんのために集まっているのかもよくわからないけど。雅人さん、って言いましたっけ。郁子はどこへでも連れて帰ってください」
「ちょっと待ってよ。なんで私が追い出されなきゃならないのよ」
「追い出すなんて言ってない。好きにしてくれって言ってるだけで」
雅人の顔をちらりと見た。さすがに裕二に許可されたからと言って、これから雅人と出かける気にはならない。
「ねえ、谷村さん、もうお互い好きにしたらいいと思うよ」
ずっと黙っていた坂本が口を開いた。
「谷村さんには言ってなかったけ?うちはほとんど別居状態で、お互い好き勝手にやってるけど、何の問題もないし、真奈もちゃんと育ってる。今はテニスにしか興味ないけど、ちょっと前まではマッチングアプリで遊び倒してたの。谷村さんは真面目そうだったから、今まで黙ってたけど、お互い好き勝手にした方がストレスにならなくていいと思う」
そう言われてみれば、坂本の夫には一度も会ったことはなかった。
「そうだったのね。全然気がつかなかったけど、ちょっと気が楽になった。ありがとう」
何ひとつ解決はしなかったけど、これ以上話し合うべきことはなかった。不意に早苗の携帯が鳴った。
「はい……まだ谷村さんのお宅におります……はい……え? ちょっと待ってください」
早苗が携帯を耳から離す。
「葉月、あのもうひとりの子は?」
「杏のこと?」
「うん、そうだと思う。柳瀬杏奈っていうらしいんだけど、どこにいる?」
「杏さんなら、花梨の部屋にいると思うけど……」
葉月の代わりに、早苗に杏の居場所を教えた。
「郁子さん、花梨ちゃんの部屋を見てきて。早く」
いったい何が起こったのだろうと思いながら、慌てて花梨の部屋に行くと、窓が開いていて、部屋には誰もいなかった。
「花梨も杏さんも部屋にいなかった……たぶんねねも」
花梨はどこに行ってしまったのだろう。杏といっしょにアイスを買いに行ったのか。でも、出かけるなら一声かけてくれればいいのに。それに、なぜ窓からこっそり出ていったのか?
「え……ここにはいないようです。でも、遠くには行っていないと思います……はい、わかりました」
早苗が電話を切った。
「今の電話って?」
「警察。落ち着いてよく聞いて。あの子は両親を刺して逃走中らしいの。これからすぐ来るって」
全身から血の気が引いた。一刻も早く杏と花梨を探さなければ。
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