緊張ブレイキングダウン

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緊張ブレイキングダウン

 全身に浴びせられる拍手と温かい声援。それはどんどんと大きくなり、僕を包み込む。  まだダメだ。まだダメだ。目を開けるな。落ち着け、落ち着け!  固く目を閉じたまま深々と一礼をする。それに呼応するように膨れ上がる声援。意を決した僕は、うっすらと目を開いてみた。そこには会場を埋め尽くす観客の姿。気づいた時にはもう、僕の膝はガクガクと震えはじめていた。  極度の緊張が支配し、頭は真っ白に。自分が何者で、どこで何をしているのかさえ分からなくなっていた。  どれほどの時間が経ったのだろう。数分間? いや、数時間? ようやく正気を取り戻した僕は、 「えっ……」  脱力とともに思わず声が漏れた。信じられない光景が目の前に広がっていたからだ。  満席だったはずの会場から、すべての観客が姿を消し去っていた。 「緊張をほぐすおまじないがあるのよ」  母はそう言うと、僕の手を取り、人差し指を手のひらに押し当てた。 「手のひらに〈人〉って文字を書いて、飲み込むの。それを三度繰り返せば、緊張しなくて済むわよ」  そんなこと、誰だって知ってる。手垢にまみれた迷信だ。  話半分に母の助言を聞き流していたが、次のピアノのコンテストで僕は、すがる思いでそれを試していた。するとどうだろう。何もしないよりかは幾分、緊張が和らいだ気がした。  しかしそれも束の間、ピアノのスキルアップとともに出場するコンテストのスケールが大きくなり、会場の規模も大きくなっていった。それだけ多くの観客の視線が突き刺さる。緊張感が膨れ上がるのは言うまでもない。 「ダメだ……ダメだ……ダメだ――」  もはや手のひらのおまじない如きじゃ、僕の緊張は拭い去れなくなっていた。  そんな中、あるコンテストで事件は起きた。  緊張に押しつぶされた僕は、頭が真っ白になり、意識を失うことに。そして、気づけばステージの上にひとり、ポツンと立ち尽くしていた。誰ひとりいなくなってしまった会場の中で。  いったい何が起こったんだ?!  放心状態の僕は、あてもなく周囲に目をやった。唯一、視界に入ってきたのは、記録用にとステージの隅に設置してあったカメラ。  事の顛末を知りたくて、カメラに駆け寄る。録画された映像を再生した瞬間、全身から血の気が引いていった。そこには凄惨な光景が映し出されていた。  手のひらに書いた〈人〉を飲み込むだけじゃ、もはや緊張を押さえ切れなくなった様子の僕。ピアノの前に立ち、悶えるように頭を掻きむしっている。その表情は徐々に狂気を帯びはじめ、ついには半狂乱の形相で客席へと飛び出していった。そして、手のひらの〈人〉だけでは飽き足らなくなったのか、あろうことか客席の〈人〉を飲み込んでいった。次から次へと。  悲鳴をあげながら逃げ惑う観客たち。獲物を狙うようにして僕は、その身体を掴み上げ、容赦なく丸飲みしていく。ひと飲みするごとに、安心した表情を浮かべている。垣間見える舌先からは、飢えた唾液が滴り落ちていた。  コンテストを楽しみに来場してくれた一般客には悪いが、両親や先生が会場に来ない日でよかった。もしあの惨劇で、大切な人まで失っていたなら、僕は二度と立ち直れなかったに違いない。  コンテストの結果を報告しなければと、僕は会場をあとにし、ピアノ教室で待つ先生のもとへと向かった。  いざ教室の近くまで来たものの、その足取りは重かった。説明してもどうせ信じてもらえまい。証拠が残ってはマズいと、録画した記録メディアも破壊してしまった。先生から尋ねられるまでは黙っていよう――そう心に決め、踵を返したときだった。 「今日のコンテスト、どうだった?」  咄嗟の声に身体が硬直する。  声に目をやると、レッスンを終えたあとだろうか、同じ先生に習う同級生の美咲がそこに立っていた。  不安と孤独に押しつぶされそうになっていた僕の心に、彼女の声は優しく染み渡っていった。  彼女の存在はいつも僕の背中を押してくれた。その優しさ、その美しさ。同じ夢を持つ者として、彼女に惹かれない理由はなかった。  いつか彼女と付き合える日が来ればいいのに――そんなことを夢見ながら、彼女とともに切磋琢磨してきた日々。  今日は人生最悪の日だ。破れかぶれついでに、わずかな一歩を踏み出してもいいんじゃないか。  一緒に帰らない?  そんな小さな願いを訴えようと思った。勇気を振り絞り、伝えてみようと思った。その瞬間、あろうことか僕の膝が震えはじめた。 「どうしたの?」 「あっ、いや――」  カメラのモニタで再生された(おぞ)ましい映像が脳裏に蘇る。  緊張で意識が飛びそうになる中、大切な人を丸飲みにしようと大口を開けはじめた自分に気づく。ダメだ、ダメだ、緊張するな! 「うぐっ」  軽い衝撃とともに、僕の意識は僕の中へと舞い戻ってきた。  ゆっくり目を開けると、そこには彼女の澄んだ瞳があった。そして、僕の口は彼女の唇によって塞がれていた。  柔らかい彼女の唇。そこから伝わる温度。液体になってしまいそうなほどに、とろけていく身体。 「一緒に帰ろっ」  しばしのキスを終えた彼女は、いつもどおりの笑みを浮かべながら、恥ずかしそうに僕の手を取った。  あの日から僕は、緊張に襲われることがなくなった。彼女の唇の魔法が、僕を強くさせてくれたのだろう。彼女と過ごす日々の中で、ピアニストとしても知名度を手にしていった。  幸せを絵に描いた毎日。決して裕福ではないが、何ひとつ不満のない彼女との同棲生活。僕の心は完全に満たされていた。この日が来るまでは―― 「大丈夫? 緊張してない?」 「うん。大丈夫! 大切な日に違いはないけど、普段の大舞台に比べたら、大したことないよ」  強がってはみたものの、どうやら今日ばかりは様子が違っていた。  責任感、重圧、畏怖。もし、ダメだったらどうしようと弱気になる気持ち。怖気づく僕の前に、その人は姿を見せた。 「どうも」  深みのある声が、鈍器のように僕を打つ。  今日、僕が果たすべき使命はたったひとつ。〈娘さんを僕にください!〉対峙する彼女のお父さんに、そう伝えるだけだ。  何度も覚悟を決めてきたはずなのに、威厳に溢れた彼女の父を前にして、ボロボロと崩れていく意気込み。気づけば小さく膝が震えはじめていた。 「やばい……」思わず声が漏れた。  彼女のお父さんを丸飲みしてしまったら大変なことになる。ふたりの幸せを、自らの手で破壊してしまう。 ――緊張するな! 落ち着け!  震える膝を何度も拳で叩いてはみたが、自らを戒める力よりも遥かに強く、緊張感は僕を押しつぶしていった。  いざ丸飲みせんと大口を開いたときだった。目の前にもう一体、自分と同じく、大口を開いた怪物がいた。それは、プルプルと身体を震わせる彼女のお父さんだった。 「長年、手塩にかけて育てた大切な大切な、ひとり娘なんだ! そんな娘の交際相手が結婚を申し出てくる日に、緊張しないわけがないだろう!」  泣き言を撒き散らすように叫びながら、お父さんは僕を丸飲みしようと迫ってきた。とてつもない迫力だ。このままじゃ僕は飲み込まれてしまう。なんとかしないと―― 「あんたたち、何やってるの! 男でしょ! シャキっとしなさい!」  突然浴びせられた声。目をやると、キッチンから半身を覗かせ、彼女の母親がこちらを睨みつけている。  母の偉大さに気圧(けお)された僕は、気づくと座布団の上にちょこんと正座していた。慌てて視線を正面に向けてみると、恐れる妻の咆哮が余程こたえたのか、さっきまでの威厳はすっかり鳴りを潜め、萎縮しながらプルプルと震える彼女の父の姿がそこにはあった。
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