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 高校入学早々、イケメンのクラスメイトの八乙女董(やおとめかおる)=ハチと、めくるめく少女漫画的展開の恋を妄想していたら。ハチは、色白で華奢な私の幼馴染の角橋虎太郎(すみはしこたろう)=トラが好きで。ハチの純粋な恋心に心が震えて、友達としてハチの恋を応援する事にした私は、新たな恋のお相手を探していた。  「チコ。おい、チコ。藤井千夜子!」  廊下に飾られている絵を鑑賞していると、ハチが私の肩を掴んで大きく揺さぶった。  相変わらずのイケメン面を間近で見ると、胸が高鳴りそうだが、私は、それよりも掴まれた肩が気になって、そっとハチの手を払う。  「何?肩まで掴まなくても、呼んだら聞こえるわ」  「呼んでも聞こえて無かったから、肩を掴んだんだよ。チャイムが鳴ったから、さっさと美術室に入れ」  モネの睡蓮を連想させるこの作品は、簡素な学校の廊下を美術館に変えている。絵の下に記されている作者の名前は、松井賢汰(まついけんた)。  「この絵。素敵だと思わない?」  「確かに。モネに影響されてるのかな」  「私も、そう思った」  本当はもっとこの絵について語り合いたかったけれど、先生が来たので、私とハチは美術室に入った。  美術の授業が終わってから、先生に廊下の絵について質問すると、その絵は美術部の2年生が描いたものだと教えてくれた。  「良かったら美術部に見学においで。その絵を描いた部員が次の作品に取り掛かっているから」  絵を描くことには興味は無いが、その人が描いた絵を見たいと思ったので、放課後、ハチを伴って部活見学に行くことにした。  「何で俺が付いてかなきゃならないんだ、チコが一人で行けば、俺はトラと二人で帰れたのに」  「ハチも見たいと思わなかった?あの作者の新作を」  「まぁ、確かに。見てみたいとは、思った」  「でしょ。トラと二人になりたければ、いつでも協力するわよ。だから、今日は私に協力しなさい」  感情を表さないタイプだと思っていたハチは、不服だというオーラをわざとらしくらい漂わせていて、近しい人にはちゃんと感情を見せるのだと分かり、少し可愛いく思った。  校舎の外から運動部の声が聞こえるが、美術室に入ると、キャンバスに走らせるザラザラとした鉛筆の微かな音や、油と絵の具が混ざりあった筆が色をのせる粘りある音が静かに聞こえ、厳かで柔らかな空気を作り出している教会みたいだと思った。私は美術室を見渡すと、一つのキャンバスに吸い寄せられるように歩み寄った。  「…冬?」  まだ色がのり始めたばかりのキャンバスに、小さな池の周りに咲く南天と椿が描かれている。  「それを見ただけで冬だと分かるなんて、花に詳しんだね」  背後から聞こえる声に振り返ると、私の頭一つ分高い背の少し癖のある髪に野暮ったい眼鏡をかけた男子が筆を持って立っていた。  「これ、廊下に飾ってある絵の連作ですよね?」  「そう。良く分かったね」  「松井賢汰さん?」  「そうだけど、君は?」  「1年2組。藤井千夜子です」  「一年の藤井?あぁ、君が藤井さんか」  「どこかで会ってますか?」  「いや。クラスの女子が、凄い一年生がいるって噂してたのを耳にした事があって」  「そうですか。新入生代表の挨拶をしたからかな?」  「そうかもね。で、その藤井さんは、入部希望者?」  「いえ、今日のところは見学を。この絵が見たかったので」  「僕の絵?そうなんだ、ありがとう、ゆっくり見学していって」  松井さんはキャンバスの前に座ると、持っていた筆で小さな南天の実を描き出した。話していた時は柔らかな空気を纏っていたが、絵に向き合うともう話しかけてはいけないような厳かな空気を醸し出した。  松井さんの後ろから未完成の絵を眺めていたが、しばらくして、隣に居たはずのハチがいない事に気が付いた。私に黙って帰ったのかと思ったが、少し離れた場所で美術の先生に質問をしながら、クロッキー帳にワインボトルの輪郭を描いている。まだわずかしか描かれていないけれど、上手いと分かる線だった。  「ハチって絵が得意だったんだ」  「得意って言えるもんじゃないけど、絵は好きだ」  ハチが私の問いかけに応えたのはこれくらいで、後は何を話しかけても無視するので、私はハチを置いて先に帰った。       
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