さよならピアニスト

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「ちょっとそこで待ってて」  春くんはそう言うと、青い楽器ケースを机の上に置いて、私のことなどお構いなしにオーボエを組み立て始めた。  謝罪のタイミングを失った私は、組み立てられていくオーボエをじっと眺めていた。 「手慣れてるね」 「毎日やってれば誰だって慣れる」 「はは、そうだよね」  ちくっと胸の奥が痛んだのには気づかないふりをする。  春くんは組み立てたオーボエを持って、私に向き直った。 「んじゃ、聴いてくれ」 「え」  戸惑う私を放置して、春くんはオーボエを吹き始めた。  私は思わず息をのむ。  入りが滑らかすぎて、いつ曲が始まったのかわからなかった。  気づいた時には、私は優美な旋律の風に包まれていた。  曲は、昨日と同じダッタン人の踊り。  いや、同じなんかじゃない。たった一日で、音に安定感が増した。  春くんがどれだけ本気で取り組んできたのかわかる気がして、何も知らずに「下手くそ」と貶した自分が恥ずかしくて仕方がなかった。  切なげな余韻を残して曲が終わると、春くんは得意げに胸を張った。 「どうだった?」 「すごく良かった。音程、外れてたところを修正したんだね」 「おう! おかげで良い音になったよ。ありがとう」  春くんは清々しい顔をして、軽く頭を下げた。  私は罪悪感を覚えて、激しく首を横に振った。 「礼なんて言われる資格ないよ! 私のほうこそ、下手くそなんて言ってごめんなさい」 「音程合ってなかったのは事実だろ。謝るなよ」  春くんは昔から、音楽のことになると素直で寛容だ。  いきなり私をストーカー呼ばわりした人とは思えない。 「あんた耳が良いな、音楽経験者だろ? 名前は?」 「東雲(しののめ)」 「東雲って……」  春くんはじっと私を見つめて、はっと何かに気づいたように目を見開いた。 「え、まさか香澄ちゃん? ピアノ教室で一緒だった」 「うん、そうだよ」 「マジか、全然気づかなかった。香澄ちゃんってあのピアノ教室で一番上手かったし、超生意気な感じだったから」 「わーー!? やめてーー!」  私は春くんの言葉をさえぎるように叫んだ。春くんはびっくりしたように目をぱちぱちと瞬かせる。  あまりにも恥ずかしくて、顔がかっと熱くなった。 「もうやめてください! 中学で自分が天狗になっていたことを痛いほど思い知ったから! 反省してます!」 「おう、何かごめん。香澄ちゃん……えっと、東雲も、色々あったんだな」  幼少の頃の呼び名は恥ずかしかったのか、春くんは照れくさそうに呼び直した。  お互い顔を赤らめながら、変な沈黙がつづいた。沈黙を破ったのは、春くんだった。 「俺がピアノを辞めた話、していいか?」  春くんの真剣な声に、私は黙ってうなずいた。  まったく面白くない話だけど、と春くんは前置きしてから話し始めた。 「引っ越したところにあったピアノ教室で、天才に出会ったんだ。その天才を俺が勝手にライバル視して、勝手に自滅したって話」  春くんは自嘲気味に笑った。 「俺だって努力すればそいつに追いつけると思って、ひたすらピアノを弾いた。でも、どれだけ努力しようと天才には勝てない。一度そう思うと、弾けなくなった。指がもつれて、焦って楽譜を見るのも忘れて、頭の中が真っ白になって」  春くんは一度言葉を切り、再び口を開いた。 「俺はそいつと自分を比べることしか頭になかった。そうやって自分を追いつめて、ピアノから逃げたんだよ」  春くんの声は震えていた。  ピアノが大好きだった春くんが、ピアノを諦めるほどの絶望に打ちひしがれていたなんて、考えもしなかった。 「そこから自暴自棄になって、髪を染めてみたり、色々試してみたりしたけど、すぐ飽きちゃってさ」  ぎくっとして、私は耳の近くの髪に触れた。 「そんな時に、これに出会ったんだ」 「そっか……」 「情けない話だろ? 約束破って、本当にごめん」  春くんは深々と頭を下げた。
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