さよならピアニスト

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 春くんの頭頂部を見つめながら、私は握った拳を震わせた。勝手に裏切られた気持ちになって、八つ当たりして、情けないのは私のほうだ。  私はピアノに視線を走らせ、気持ちを落ち着けるために深呼吸した。 「春くんが今までの努力を披露してくれたのに、私だけ何もしないなんて失礼だよね」 「え?」  私はピアノに近づいて、震える指で鍵盤蓋を開いた。  しばらく見たくないと思っていたはずなのに、再び出会えたことに歓喜する自分がいる。 「これが私の最後のピアノ」 「最後?」 「春くんとの約束のおかげで、何度壁にぶつかっても立ち上がることができた。その感謝と、謝罪の気持ち」  椅子に座って、震える指を鍵盤に添える。  怯むな。力強く、踏みこめ!  ダンッと力強い音が鳴り響いた。  背後で息をのむ気配がした。  ショパン、ポロネーズ第六番。通称「英雄ポロネーズ」。  指が鍵盤の上を踊る。抑えきれないほどの高揚感に包まれて、じわりと涙がにじんだ。  ああ、私の音が帰ってきた! 全身が歓喜し、熱狂している。 「すげぇ……」  春くんのつぶやきが、音の洪水の中に消える。  帰る場所を失ったショパンの、祖国への想いに心が共鳴する。  音が弾んで、楽しい。楽しいのに、次第に指がもつれてきた。  音の粒たちがぶつかり、まるでドミノ倒しのように重なって潰れていく。  これ以上、作曲家が生み出した宝物に傷をつけたくなくて、鍵盤から手を離した。  ポロンと寂しげな音の余韻を残し、私の演奏は終わった。  私の両手は、ガタガタと激しく震えていた。 「すごいでしょ? 手の震えが止まらないんだ」  笑ったつもりなのに声が震えて、視界がにじんだ。 「中三の時に交通事故に遭ってさ。日常生活には問題ないくらい回復したけど、ピアノは無理だった。だから私も、約束破ってごめんなさい!」  湿っぽい空気になるのが嫌で、私は涙を拭って笑った。 「それでさ、今はカラオケとか、お洒落にはまってるんだ。手がこれでも、死ぬわけじゃないし!」  しばらく沈黙がおりた。  恐る恐る春くんのほうに視線を向けると、春くんはじっと私を見つめていた。 「東雲さ、オーボエのこと結構知ってる感じだよな」 「それは、昨日動画を観たから……」 「もしかして、まだ諦めてないんじゃないのか? ピアノ以外に、自分ができる音楽を探しているんじゃないのか?」 「違う!」  私は激しく首を横に振った。 「だってこんな手だよ? 何をするにも震えるこの手で、どんな音楽ができるっていうの!?」  音楽室に私の怒声が響き渡った。  八つ当たりをしたって仕方ないのに、それでも感情を抑えることができなかった。 「指揮者、してみれば?」 「へ?」  春くんは、名案だと言わんばかりにうなずいた。
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