さよならピアニスト

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「東雲が指揮して、俺が音を出す。やってみよう」 「待って、指揮者なんてやったことないよ!?」 「何となくでいいだろ」 「えー……」  春くんは私に向き直って、オーボエを構えた。  私は戸惑いながら、両手を顔の高さに上げてみる。 「指揮者ってどこを見ればいいの?」 「わかんねぇよな。俺たちは、ピアノは、いつだってひとりで向き合ってきたもんな」  私ははっとして、春くんの顔を見た。  春くんは私と目が合うと、わずかに表情をゆるめた。 「そうだ、私……自分の手ばかり見てた」  事故に遭って、病室で目覚めたあの日からずっと。 「俺の知ってる指揮者は、俺たちの顔を見てるよ」 「顏……」  言われた通りに春くんの顔を凝視すると、なぜか春くんは視線をそらした。 「あ、あんまりじっと見んなよ」 「さっきのアドバイスは!?」 「いいからほら、指揮してくれよ」 「もう、わかったよ。変な演奏になっても知らないよ」  私は再び両手を上げようとして、ふとあることに気がついた。  いきなり手を上げると、奏者はいつ演奏を始めていいのかわからない。  私は震える手を視界の外へ、腰の位置くらいまで下げてみた。  すると、春くんは合図を待つように構えた。  私は息を吸いこみ、両手を上げた。  プフォー、スカー。  空気の抜ける音がして、がくっと力が抜けた。  春くんは恥ずかしそうに頬を染めた。 「リードが爆発した」 「そのリードでさっき吹いてたよね……」  そうやって無茶苦茶な言い訳をするところは、昔と変わらない。  おかげで肩から余分な力が抜けた。  私はふうっと息を吹きこむように、右手を春くんに向けた。  すーっと柔らかい音色が流れ始める。  歌劇「イーゴリ公」より、「ダッタン人の踊り」。  故郷ルーシを守るために戦ったロシアの英雄イーゴリ公。戦いの中で捕虜となったイーゴリとその息子に対して、敵将は宴席を設けて、彼らをもてなした。  春くんの演奏は華やかな宴そのものだった。 「私なら……」  手の振りにわずかな強弱をつければ、強い悲しみの旋律に。そっと小鳥の頭をなでるように指先を滑らせれば、優美な旋律に変化していく。  春くんは、私の意図を汲み取って応えてくれた。  故郷を想う美しい女たちの歌声が、哀愁漂う音色となって吹き抜ける。  私たちは共に歌った。  二度と戻ることはない、あの愛おしい日々を想って。
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