能力

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「私ね、変な癖があるんです。癖って言うか、どっちかと言うと、特殊な能力みたいなものかと思ってるんだけど」  久方ぶりに顔を出した鳥飼のバーで、私はその杏子という女性と知り合った。なかなかに色気のある顔立ちで、社交的というか、あっけらかんとして、ちょっと天然な感じもする、不思議な魅力のある女性だった。 「特殊な能力ですか?」 「そう。何かって言うとね。自分に好意を持ってくれる人が近づいてくると、左手の小指が、微かに震えるんです」  そう言いながら、マティーニグラスを持ったまま左手を上げてみせた。勿論、今はその小指には何の動きもない。 「ふーん、いつもそうなんですか?」 「大体、そうなの。これは、ずっと小さい時からそうだったんだけど。一番最初は五歳の時。同じ幼稚園に通うショウ君って男の子がいてね。その子が側に来るたびに、小指が震えるようになったの」 「へえ。これはまた、幼い恋の物語ですか」 カウンターの鳥飼が笑顔を見せる。 「残念ながら、進展は無かったの。その子は年の割に身体も大きくて、乱暴なところもあってね。しょっちゅう色んな子を泣かせたりして、ちょっとした問題児だったの。まあ、幼い男の子は粗暴な面もあるんでしょうけど、ちょっと度を越していたのね。しょっちゅう私と遊ぼうとするんだけど、どうしても好きになれなかった」 「なるほどね。でも、その子が好意を持っていたというのは確かなんですね」 「そう。何故そう思ったかっていうと、私、その時に家族に相談したの。こういう状況で、あの子が寄ってくると、左手の小指が震えるということを話したら、一緒に住んでいた父方のお婆ちゃんが、それは、その人が杏子のことを好きなんだってしるしだよ、って笑いながら教えてくれたんです」 「なるほど。お婆さんが、ですか」 「そう。だから、その時から、私にはそういう能力があることがわかったんです。お婆ちゃんは、この家の女性には代々そういう力がある、みたいなことも言ってた」  そう言って、杏子はマティーニグラスに口を付けた。派手目の色の口紅がグラスの縁に色を着ける。 「その次は、小学5年生の時。担任の先生と話してると、小指が震えたの」 「担任の先生、ですか?」  鳥飼が少し驚いたような表情を浮かべる。 「そう。とってもイケメンな若い先生でね。みんなから人気があって、あたしも大好きだったんだけどね。でも、そうこうしているうちにその先生、急に転勤になってね。みんなも残念がっていたけど、それっきり」 「今晩は」  急に扉が開く音がして、顔をあげた鳥飼が挨拶をする。一人の中年男性が入ってきた。前に一度見たような気もする。 「いらっしゃいませ。井上さん」  井上と呼ばれた男性は、まっすぐに杏子の隣の席に向かうと、ごく自然な動作で腰を下ろした。あたかもそこが指定席のような仕草だった。なかなかのイケメンで身なりもよく、「いつものやつ」というオーダーの声も滑らかな低音で、いかにももてそうな印象を与える。  ふと気づくと、杏子の左手の小指が震えている。私の目にも明らかに見て取れたくらい、大きく震えている。彼女自身、その激しさにびっくりしているような印象を受けた。 「こちらは初めてですか?」  井上がごく自然に杏子に声をかけた。 「いいえ。でも、つい最近知ったんです。とっても素敵なお店ですね」  杏子の声が弾んでいる。その後は、あっという間に杏子と井上二人きりの会話が始まり、気が付くと、スマートに二人分の勘定を済ませた井上が杏子の腕を取って、店を出ていった。 「あざやかだなあ」 思わず漏らした私の言葉に、鳥飼が苦笑する。 「確かにあざやかですよね」 「あの人、いつもあんな感じ?」 「実は、井上さんは、まだそんなにお見えになってないんです。まだ2,3回目ぐらいで、あまり詳しいことは存じ上げないんです」 「なるほどね。あの杏子さんて人も、まだ2,3回みたいなことを言ってたね」  鳥飼が頷いてみせる。 「ええ。ただ、あの人は結構自分のことをよく喋るんですよね。ちょっと無防備な感じもするくらいで、少し心配なくらいなんです」 「ふーん、確かに初対面の僕にも自分の体験を割と具体的に話してくれたな」 「ご家族の話もしてましたけど、複雑な事情があるらしいんですよね。彼女のお父さんは、本当のお父さんじゃないみたいで、つまり、お母さんと他の男性との間に出来た子供らしいんですよね……」 「え、そうなの」 「これ、私から聞いたことは、一応内緒にしておいてくださいね。彼女はあんまり気にしていないみたいですけど」  今日、今までに見聞きしたことが、私の中で絡み始める。  小指の震えとは、好意を持った男性の接近と言うよりも、危険を知らせていたのではないだろうか。粗暴な男の子、急に転勤になった担任の教師……彼らが彼女に好意を持っていたのも確かだろうが、その好意は彼女を危険に晒す方向に向かおうとしていたのではないか。  そして、もしそうだとしたら、彼女の”お婆ちゃん”の言葉……”その人が杏子のことを好きなんだってしるしだよ”……それは嘘を教えたことになる。寧ろ、折角回避できた危険を彼女にわざわざ呼び込む結果になるのではないか。祖母は何故、そんな嘘を教えたのか。 「複雑な事情があるらしいんですけどね。彼女のお父さんは、本当のお父さんじゃないみたいで、つまり、お母さんと他の男性との間に出来た子供らしいんですよね……」  そういう事情を持った”孫”に向けられる父方の祖母の目線…… 「鳥飼ちゃん、ウイスキー、ストレートで」  私は考えるのをやめ、今夜はもうひたすら飲み続けることにした。 [了]
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